
名古屋の歴史・文化年表について
名古屋の塗装店小林塗装店主小林ゆずが『名古屋の歴史年表』をこのたび作成しました。
この名古屋の歴史年表をつくる経緯は、店主小林ゆずは、名古屋市内で多くのお客様とお話をしている際や塗装工事を行っている際、名古屋の歴史、文化、できごとについて知らない事がたびたびあったからです。
(名古屋で塗装工事をやっておきながら、なんだか恥ずかしい限りです。)
ですから、地元名古屋の歴史文化などと言った色々なできごとを紐解いて、名古屋が今の姿に至るまでの歴史年表を作成して、自分自身も勉強できればいいなぁと思って、分かりやすいようにまとめました。
(調べたジャンルはやや偏っていますが、小林塗装が作成した『塗料の歴史』と同様に、個人的な興味で調べたディープでマイナーな名古屋の歴史や地元である名古屋市北区周辺のできごともたくさん調べました。西洋のように歴史を大切にする精神をお持ちの方や地元名古屋に対するちょっとゆがんだ郷土愛をお持ちの方も楽しめる内容となっています。)
小林塗装は、こういった名古屋の歴史・文化・由来をよく知って、名古屋という地域に根差したお値打ちで、なおかつハイクオリティーな塗装工事を行う事を目指しています。
なお、名古屋の歴史や文化に興味のある方もぜひご覧ください。
(ちょっとした、名古屋通になれるかもしれませんよ。)
なお、この「名古屋の歴史・文化年表」については、加筆や修正を不定期に行っていきます。
9.5~8.5万年前
名古屋市熱田区周辺の地層中に御岳第1テフラ(火山灰)が混入しました。
8万年前
熱田区周辺の地層上部に土や砂の堆積が進みました。(熱田台地の形成)
6万年前
名古屋北部の大曽根面~鶴舞付近が庄内川、若しくは矢田川(古矢田川)の浸食によって形成されました。
縄文時代前期

現在、名古屋市内にある縄文時代前期の遺跡は、緑区鳴海の上ノ山貝塚(かみのやまかいづか)、鉾ノ木貝塚(ほこのきかいつか)‥があります。
また、海面が上昇した地域で営まれた縄文時代前期の大曲輪貝塚(瑞穂区、瑞穂運動場内)からは、竪穴住居の跡が見つかっています。
大曲輪貝塚周辺の厚さ30cmほどの貝層からは、カキ、蛤、ばい貝、浅蜊を中心とした貝類や猪・鹿などの動物の骨・魚骨などが出土されました。
なお、大曲輪貝塚では、まるで犬を抱いているかの様な状態で埋葬された珍しい人骨が見つかって、全国的に注目を集めました。
縄文時代後期
名古屋市内にある縄文時代中期から、後期の遺跡は、瑞穂区の下内田貝塚、緑区の清水寺遺跡、東区の片山神社遺跡や長寺貝塚‥が知られていますが、いずれも規模の小さな遺跡で、大規模な集落には至っていません。
近年の調査では、東区の東二葉町遺跡から、縄文中期から後期の住居跡が確認されています。
縄文時代の後期の集落です。
なお、守山区の「牛牧遺跡」(高島町、小幡中3丁目の周辺)、緑区の「雷貝塚」(名古屋市立鳴海小学校のあたり)・「矢切遺跡」(鳴海町矢切)、熱田区の「玉ノ井遺跡」(玉の井町)‥では、数十基の墓坑(ぼこう=墓の穴)が見つかっています。
弥生時代
名古屋市内に残っている弥生時代最初の集落は、名古屋市西区から北区にかけて広がる西志賀遺跡、(西区庄内川南側の標高3mから4m程度の微高地に発達した遺跡。 現在の西区貝田町から北区西志賀町のあたり)で営まれはじめました。
西志賀遺跡をはじめとする弥生時代前期の遺跡からは、弥生文化伝来の象徴であり、西日本からの稲作文化の伝播を示す遠賀川式土器(おんががわしきどき)などが多く出土しています。
ちなみに、西志賀遺跡と隣接する志賀公園遺跡や平手町遺跡は、別の遺跡になります。
弥生時代中期
弥生時代の中期になると、名古屋市内の遺跡の数自体も増加し、「朝日遺跡(愛知県清須市、名古屋市西区に広がる、遺跡面積が約80万㎡の吉野ケ里遺跡にも匹敵する全国最大級の弥生時代の遺跡です。)」や北区の「平手町遺跡(平手町1丁目にある標高5m程度の沖積地=現在のクオリティライフ21城北付近)」など低地部の遺跡のほか、熱田区の「高蔵遺跡(高蔵町付近、熱田台地の東端)」、瑞穂区の「瑞穂遺跡(現在の瑞穂小学校付近)」などの台地上にも集落が広がっていきました。
北区の平手町遺跡からは、舟形木棺(ふながたもっかん=丸太を縦に二つに割って中をくり抜いて作った棺桶)も発見されています。
この時代、彩色された高坏(たかつき=食物を盛る台)や壺が数多く作られ、こういった土器は『パレススタイル土器』と呼ばれています。
古墳時代
古墳時代になると、現在の名古屋市域の各地を基盤とした様々な勢力は、大和政権と関係を結び、大和政権の中に組み込まれていきました。
その当時、この地方の支配権を握っていた天火明命(あめのほあかり)を祖神とする尾張氏は、一族の女性を天皇に嫁がせ、天皇家の外戚として王権内での地位を揺るぎない不動のものにしていきました。
その時代の遺跡として名古屋市内には、愛知県内一の規模を誇る「断夫山古墳(だんぷやまこふん)」、愛知県下第三位の規模の「白鳥古墳(しらとりこふん)」‥大型の前方後円墳のほか、小型の古墳も含め、数多くの古墳が残されています。
名古屋市内の古墳の分布は、大きく分けると、庄内川流域の古墳、矢田川流域の古墳、名古屋台地上の古墳と言った3つの地域に分けられます。
庄内川流域にある古墳は、濃尾平野の最奥部にあたる守山区の東谷山付近で「白鳥塚古墳(しらとりづかこふん)」、「中社古墳(なかやしろこふん)」の前方後円墳が古墳時代の早い段階に築造され、庄内川の対岸である春日井市域を含めて、その後も引き続いて古墳が築かれました。
名古屋台地上では、庄内川流域の古墳にやや遅れて八高古墳‥と言った前方後円墳が造られ、庄内川流域と同様に継続的に大型、中型の古墳が築かれました。
庄内川は、この時代以降、水運、農業用水‥名古屋の発展に欠かせない河川となっていきました。
ちなみに古代の尾張国には、中島(なかしま)、海部(あま)、葉栗(はぐり)、丹羽(にわ)、春部(かすがべ)、山田(やまだ)、愛智(あいち)、智多(ちた)の8郡が置かれ、尾張国の政治の中枢である国府は、中島郡(稲沢市松下、国府宮のあたり) に置かれていました。
646年(大化2年) 午年(うま年)
現在の熱田区に「熱田神宮」が創建されました。
熱田神宮は、三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られており、古くは尾張国(現在の愛知県西部)における地方大社として存在感を示し、中世以降は政治的、経済的に急速に台頭して、伊勢神宮、石清水八幡宮に継ぐ「日本第三之鎮守」、「伊勢神宮に次ぐ、御由緒の尊い大社」とされるほどの国家的な崇拝を受ける様になりました。
現在では、「あつたさん」と親しまれ、皇室をはじめ、多くの人から厚い崇敬と信仰を集めています
668年 (天智天皇7年) 辰年(たつ年)
沙門の道行(どうきょう 新羅の僧)が国宝である「草薙剣(くさなぎのつるぎ)=天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を盗みました。 道行は、草薙剣を盗み、新羅(しらぎ=朝鮮半島南東部にあった国)に向かって逃げましたが、その途中で風雨に遭った為、道行は迷って帰ってきて、草薙剣が還されたと日本書紀(養老4年(720年))に記されています。(何だか、よく分からん伝説だなぁ。・・・・)
672年 天武天皇元年) 申年(さる年)
壬申の乱の際、尾張大隅(おわりの おおすみ 生没年不詳)は、大海人皇子(おおあまのおうじ=天武天皇 てんむてんのう 生誕不詳~686年10月1日)に私宅を提供した功によって、尾張宿禰(おわりの すくね)の姓を与えられ、子の稲置からは、熱田大宮司家(熱田神宮の長官を世襲した家)と称する様になりました。
673年(天武天皇2年) 酉年(とり年)
名古屋市西区稲生町に全国の戌年生まれの人や愛犬家に親しまれいる「伊奴神社(いぬじんじゃ)」が建立されました。 (後の延喜式神名帳(古代法典)には、尾張国山田郡伊奴神社と記されています。)
676年(天武天皇5年)子年(ねずみ年)
9月21日 (木)赤口
大嘗祭(だいじょうさい)の悠紀(ゆき)として、「尾張国山田郡」が陰陽によって、定められました。
尾張国山田郡の領域は、現在の愛知県瀬戸市、尾張旭市、長久手市、日進市、名古屋市守山区、名東区の全域、西区、北区、東区、千種区の矢田川南岸一帯、天白区や東郷町北部と言われています。
現在の北区山田町周辺は、山田荘の中心地だったと考えられています。
717~724年(養老年間)
愛知県名古屋市守山区市場にある神社、白山社(はくさんしゃ)が当地に鎮座されました。
なお、白山社の境内は全域が白山古墳上になっています。
729年(天平元年)巳年(へび年)
現在の中川区荒子町に「荒子観音」が奈良時代の修験道の僧である泰澄(たいちょう 682年3月18日~767年4月20日)によって建立されました。
荒子観音は創建された当時、中川区高畑町(現在地の西側)にあって、その後何度も興廃を繰り返して、現在の場所に建立されたと考えられています。
733年(天平5年)酉年(とり年)
現在の南区笠寺町に「笠寺観音」が創建されました。
笠寺という名前の由来は、旅の途中で通りかかった藤原兼平(ふじわらの かねひら 藤原基経の子、875年~935年)が、雨の日、観音像を笠で覆った心優しい娘を見初め、京の都へ連れて帰り、玉照姫と名付け妻としました。
この縁で兼平と玉照姫によって、現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、『笠で覆う寺』、すなわち笠覆寺と名付けられたとされています。
現在の笠寺観音は、『尾張四観音(=荒子観音、甚目寺観音、竜泉寺観音、笠寺観音)』の一つで、その他『尾張三十三観音』、『名古屋二十一大師』、『なごや七福神』等と言った霊場の札所でもあり、観光散策名所となっています。
745年(天平17年)酉年(とり年)

北区の「成願寺」が行基(ぎょうき 668年~749年2月23日)によって創建されました
後に、荘官である安食重頼(あじき しげより 1,112年~1,176年3月23日)の法号(常観坊隆憲)にちなんで、常観寺と呼ばれる様になりましたが、鎌倉時代の武将である山田重忠(生誕不明~1,221年7月6日)が再建した際、今の寺号「成願寺」に改められました。
成願寺は安食、山田一族の菩提寺です。
どうでもいいけど、北区の成願寺は、名古屋「住まいの塗り替え専門店 小林塗装」の地元です。
782年(延暦元年)戌年(いぬ年)
熱田神宮の神官である守部公彦正が現在の瑞穂区大喜新町に「田光神社」を創建しました。
なお地元では、「田光八幡社」とも呼ばれて言います。
793年(延暦12年)酉年(とり年)
守山区大森の「八釼神社」が建立されました。
800年代(平安時代初期)
尾関勘八郎(おぜき かんはちろう 生誕不詳)によって、現在の名古屋市守山区大森1丁目、元郷1丁目あたりに大森城が築城されました。
その後の大森城は、応仁の乱が始まった1,467年(応仁元年)に、志段味や尾張旭の新居城を支配していた水野宗国と矢田川の水利権で争った『砂川合戦』に敗れ落城した後、廃城になりました。
860年(貞観2年)辰年(たつ年)
守山区大森に尼寺である正宗庵(しょうそうあん 現在の法輪寺)が建立されました。
法輪寺には、源義経の家臣で戦死した『義経四天王』である佐藤継信(さとう つぐのぶ 1,150年?~1,185年3月22日)、佐藤忠信(さとう ただのぶ 1,153年?~1,186年11月4日)兄弟とその母の供養塔があります。
大森城主である尾関勘八郎が天台宗の尼寺、「正宗庵」(現在の法輪寺)、を守山警察署のあたりに創建しました。
909年(延喜9年)巳年(へび年)
尾張国山田郡に『不輸、不入の権』(租税徴収権や検田使などの立入りを拒否する特権)が与えられました。
尾張国山田郡は、後の戦国時代、矢田川近辺を境にして分割され、春日井郡(後の東春日井郡、西春日井郡)と愛知郡(名古屋市の大部分、日進、長久手の全域、瀬戸、豊明の一部)に編入されました。
911年(延喜11年) 未年(ひつじ年)
現在の中区丸の内に「那古野神社」が建立されました。
那古野神社は、津島牛頭天王社(つしまごず てんのうしゃ=現在の津島神社)を総本社とする天王社の一つで、建立当初は『亀尾天王社』(かめのお てんのうしゃ)と呼ばれていました。
天文元年(1,532年)の合戦で社殿を焼失しましたが、1,540年(天文8年)織田信秀によって、再建されました。
建立された際から、若宮八幡社と隣接していましたが、慶長15年(1,610年)の名古屋城が築城される際、那古野神社だけが三の丸の郭内に取り込まれ、若宮八幡社は名古屋城外に遷座されました。
この事から、『三之丸天王社』(さんのまる てんのうしゃ)とも呼ばれました。
明治維新の際、三之丸天王社は『須佐之男神社』(すさのお じんじゃ)と改称され、1,876年(明治9年)名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に、東照宮とともに旧藩校明倫堂跡地である現在地に遷座され、1,899年(明治32年)に『那古野神社』と改称しました。
現在の神社は1,945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲で本殿などが焼失してしまい、戦後に再建されました。
なお、那古野神社の神楽殿は、太平洋戦争による戦災を免れる事ができましたが、1,992年(平成4年)に火災で焼失してしまいました。
927(延長5年) 亥年(いのしし年)
『延喜式神名帳』という本に全国の神社の一覧表がまとめられ、熱田区の熱田社を始め、緑区の氷上姉子神社や守山区の尾張戸神社など名古屋市内の20社以上が記載されました 。
988年(永延2年) 子年(ねずみ年)
11月8日(土) 大安
『尾張国郡司百姓等解文』が書かれました。
尾張国解文・尾張国申文とも呼ばれています。
尾張国郡司百姓等解文は、尾張国の郡司・百姓たちが国司である藤原元命(ふじわらの もとなが 生没年不詳)の在任期間3年における非法を31か条にまとめて朝廷に訴え、藤原元命の解任を要求した文献です。
平安時代
10世紀末から11世紀前半になると、名古屋の庄内川流域や、河口近くの扇状地などに荘園が形成されていきました。
尾張(おわり)、国海部(あま)郡の「冨田荘」(中川区富田、春田、吉津、新家、千音寺、大治町の周辺)や尾張国春部(かすがべ=春日部)郡の「安食荘」(北区味鋺、成願寺、中切、福徳、春日井市勝川の周辺)は、当時の絵図や歴史史料によって位置や地割などを伺い知る事ができます。
荘園が次々と成立するなかで、「那古野(名古屋)」という地名も登場します。
また、平安時代末期に成立した那古野荘(なごののしょう)は、名古屋台地北部を中心とする荘園と推定されています。
「那古野」は、文献によって「那古屋」、「名護屋」、「名古屋」‥と記されており、この地が古くから「なごや」と呼ばれていた事が分かります。
「猿投窯」が大変栄えました。
名古屋市東部から豊田市西部、瀬戸市南部から大府市及び、刈谷市北部に1,000基あまりの窯が築かれた猿投窯は、古墳時代中期の開窯以降、古代において日本国内初の緑釉陶器(りょくゆうとうき)・灰釉陶器(はいゆうとうき)、中世には白瓷系陶器(しらじけいとうき=素焼き)を生産していた全国有数の大窯業地でした。
久安3年(1,147年) 卯年(うさぎ年)

4月8日(旧暦)
鎌倉幕府の初代征夷大将軍である、源頼朝(みなもとの よりとも 1,147年5月9日~1,199年2月9日)が尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)の熱田神宮西側にあった神宮大宮司、藤原季範(ふじわらの すえのり 1,090年~1,155年12月27日)の別邸で誕生しました。
1,184年(寿水3年)辰年(たつ年)
守山区大森、森高新田周辺が山田郡八条院領になりました。
鎌倉時代(1,185年~ 1,333年)
鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉間を結んだ鎌倉街道を商人や旅行者などが那古野を往来する様になりました。
尾張地域の鎌倉街道の宿は、鳴海、熱田、萱津(かやづ=現在のあま市付近)にあったとされています。
なお、11世紀の末から12世紀の初頭にかけて、尾張近隣の猿投窯では、『山茶碗』や『山皿』(やまぢゃわん、やまざら)と呼ばれる日用雑器=無釉薬の陶器が大量に生産される様になりました。
その後、緑区の鳴海や有松地区にも多数の窯が築かれていきました。
1,190年(建久元年) 戌年(いぬ年)

守山区小幡に「大永寺」が建立されました。
大永寺は、御家人である山田重忠(やまだ しげただ 生誕不明~1221年7月6日)が小幡に建てた寿昌院で、1,521年(大永元年)重忠の末裔である岡田 重頼が再興し、大永寺と改めましたが戦火で消失しまいました。
その後、1,617年(元和3年)戦国武将である岡田善同(おかだ よしあつ 1,558年~1,631年6月28日)が名古屋城築城の残材で現在地の大永寺町に再建し、移しました。
その後、平成8年の改築の際、鐘楼を除いて、建築物は一新されました。
余談にはなりますが、岡田善同は、名古屋の名物で、ご当地グルメの一つ「きしめん」という名前を付けた事に由来する人としても有名です。
ある説では、岡田善同が名古屋城築城普請奉行の時代、善同の部下が雉子の肉を平らな麺の上にのせたものを献上し、それをたいそう褒められたものが「雉麺(きじめん)」と言われています。
後に麺の上にのせた雉子肉がなくなって、残った平らな麺だけが「きしめん」と呼ばれる様になったと言われています。
(きしめんのルーツについては、他にも諸説あります。)
1,213年(建保元年)酉年(とり年)
「山田郡」が後鳥羽上皇に寄進されました。
室町時代(1,336年~1,573年)
室町時代の南北朝期、尾張地方は守護である土岐頼康(とき よりやす 1,318年~1,388年2月3日)が支配していましたが、将軍家の権力の強化を図った第3代将軍である足利義満は、勢力が強すぎる土岐氏一族に対し、内紛(土岐頼康の甥で養子である「土岐康行の乱」)を画策し、土岐氏の力を大きく減じさせました。 その後、室町幕府の将軍足利氏の有力一門であった斯波氏(しばし)が尾張の守護となりました。 さらにその後、斯波氏の尾張支配を補佐する守護代として、織田氏が越前国から尾張国に移ってきました。
応仁の乱以降、尾張地方では守護代である織田一族が上四郡を支配する「伊勢守家」(岩倉織田氏)と下四郡を支配する「大和守家」(清洲織田氏)の2派に分裂していました。
また、この頃には、足利氏の流れを汲む那古野の今川氏が名古屋台地北部の那古野の地を領有していました。
小林塗装の地元である北区安井のあたりは、北朝の側にいた犬飼頼隆(いぬかい よりたか 生誕不詳)が領主でした。
1,355年(文和4年) 未年(ひつじ年)
足利尊氏が長母寺(現在の名古屋市東区)に祈祷を依頼しました。
1,361年(康安元年) 丑年(うし年)
水野良春(みずの よしはる 生年不詳~1,374年(応安7年6月16日)が志段味郷(現在の名古屋市守山区志段味)の南を開墾して、新居村(現在の尾張旭市新居)を開きました。
なお、水野氏の末裔の多い新居には、良春が吉野の修験道から持ち込んだとされる『棒の手』が伝えられました。
良春の号である「無二」をとって、無二流と称され、現在では尾張旭市を代表する伝統芸能の一つとなっています。
1,379年(康歴元年)未年(ひつじ年)
・ 北朝の側にいた丹羽郡浅野の源氏である犬飼頼隆(いぬかい よりたか 生誕不詳)が戦功によって、北区安井周辺の領地が与えられました。
その地に住みついた子孫は、犬飼氏、安井氏(海部郡に移住)、浅野氏と名乗りました。
1,382年(永徳3年) 戌年(いぬ年)
緑区大高町の火上姉子神社(ひかみあねご じんじゃ)で火災が発生しました。
このできごとによって、地名が火高(ほだか)火上から、縁起を担いで大高氷上(おおだか ひかみ)へと改名されました。
なお、火上姉子神社は、「氷上山(火上山)」と呼ばれる丘の上に鎮座し、熱田神宮が創祀される以前は、三種の神器の一つである草薙剣が奉斎された神社だと言われています。
地元の人々からは「お氷上さん」と呼ばれ、信仰されてます。
1,391年(明徳2年) 未年(ひつじ年)
名東区の「明徳寺(みょうとくじ)」が創建されました。
その後、1,662年(寛文2年)、現在地である名東区陸前町に移転しました。
現在の明徳寺の本堂は、幕末の1,860年頃に建立されたものです。
山門前右側には、下社城址の石碑があり、戦国武将で有名な柴田勝家(1,522年~1,583年6月14日)の生誕地として知られています。
寺宝として柴田勝家の像が置かれています。
また、明徳寺本堂の左側にある十王堂には、名古屋市指定民俗文化財の『木造の十王像』があります。
1,394年(応永元年) 戌年(いぬ)
安原宗範(やすはら むねのり)によって、現在の緑区鳴海町に「鳴海城」が築かれました。
その後、鳴海城は駿河国、遠江国の守護大名である今川義元によって、岡部元信(おかべ もとのぶ 生誕不詳~1,581年4月25日)を鳴海城の城主として織田信長に備えました。
岡部元信は、1,560年(永禄3年)桶狭間の合戦で大将である今川義元が討死しても、なお開城せず、義元の首を信長から引き取る事で、ようやく開城したそうです。
その後、1,575年(天正3年)まで、佐久間信盛(さくま のぶもり 1,528年?~1,582年2月18日)が城主を務めた後、廃城となりました。
1,470年(文明2年) 寅年(とら年)
遠江(とおとうみ)の横地一族(現在の静岡県菊川市周辺)である横地秀綱が現在の天白区植田にやってきて、「植田城」と「植田八幡社」を創建しました。
その後の植田城主としての横地家は、八代目の横地秀住の代で終わり、後は郷士(ごうし=武士の身分のまま農業に従事した者、武士の待遇を受けていた農民)となって、代々『権蔵』を名乗ったそうです。
秀住の代、大坂の陣が終わり、駿河に戻る家康がこの地を通った際、秀住が『馬のわらじ』を献上しました。
その事を家康は大いに喜んで、横地氏代々の忠勤を称賛しました。
称賛された際、秀住が家康に願い出て、植田村の農民は、東海道の助郷(すけごう=宿場周辺の村落に課した労務)を永代免除される事になりました。
なお現在でも、名古屋市天白区の植田周辺には、横地氏の子孫の方と思われる同じ姓の方が多く住んでいます。
1,492年(明応元年) 子年(ねずみ年)
現在の名古屋市西区中小田井に小田井城主である、織田常寛(おだ じょうかん 生誕不詳~1,506年10月8日)によって、「東雲寺(とううんじ)」が開基されました。
1,521年~1,528年(大永年間)
今川義元の父である今川氏親(いまがわ うじちか 1,471年~1,526年8月1日)が那古野に「那古野城」を築きました。 また、織田信長の祖父にあたる織田信貞(おだ のぶさだ 生年不詳~1,538年11月23日)は、勝幡(現在の愛西市)に城を築き、当時港町として栄えた津島を抑えて、織田家の勢力を蓄えました。
1,522年(大永2年) 午年(うま年)
熱田神宮でつくられた刀に『名古屋』と記されました。
1,532年~1,554年(天文年間)
天文年間、末森城(城山町)主であった織田信行が父である信秀の菩提を弔うために末森城の南に位置する尾張国愛知郡鳴海荘末森村二本松(現在の千種区穂波町付近)に「桃巌寺(とうがんじ)」を建立しました。
1,712年(正徳2年)または、1,714年(正徳4年)に現在地に移されたと伝えられています。
1,987年(昭和62年)には、桃巌寺の境内に全高15m、青銅製の『名古屋大仏』が建立され、現在名古屋大仏は、知る人ぞ知る観光地(B級スポット)になっています。
また、同時期、現在の北区金城小学校一帯に「田幡城」が越智信高(おち のぶたか 生誕不詳)によって築かれました。 その後、田幡城は1,556年の稲生の戦い後に廃城となりました。
1,532年(天文1年) 羊年(ひつじ年)

織田信長(おだ のぶなが 1,534年6月23日~1,582年6月21日)の父である織田信秀(おだ のぶひで 1,511年~1,552年4月8日)が、今川一族である今川氏豊を滅ぼして那古野城を攻略し、勝幡城から居城を移しました。
ちなみに「那古野城」という名称は、この時に信秀が命名したとも言われています。
1,535年(天文4年) 羊年(ひつじ年)
12月5日 (木)大安
「森山崩れ」が起きました。
この森山崩れとは、三河国岡崎城主である松平清康(まつだいら きよやす 1,511年9月28日~1,535年12月29日)が、尾張国春日井郡森山(現在の名古屋市守山区市場周辺)の守山城陣中において、家臣の阿部正豊(あべ まさとよ 生誕不明~1,535年12月29日)に暗殺された事件の事を言います。
なお、この事件のあった守山城が廃城された時期は、桶狭間の戦いの後、後に城主に返り咲いたという信次の死後、長久手の戦いの後‥いくつかの説があります。
1,536年(天文5年) 申年(さる年)
荒子観音の「多宝塔」(たほうとう=日本で創造された仏塔で釈迦・多宝の二仏を祀る塔の事。)が再建されました。 荒子観音の多宝塔は、名古屋市内に現存する最古の建物で、現在では国の重要文化財になっています。
1,539年(天文8年) 亥年(いのしし年)
尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)で、『槍の又左』の異名を持つ前田利家(まえだ としいえ 1,539年1月15日~1,599年4月27日)が誕生しました。
1,540年(天文9年) 子年(ねずみ年)
万松寺が織田信秀によって、織田氏一族の菩提寺として那古野城の南側に建立されました。
なお、現在中区大須にある万松寺は、慶長15年(1,610年)名古屋城を築く際に小林邑(現在の中区大須3丁目)に移建し、建立されました。
1,548年(天文17年) 申年(さる年)
現在の中区大須に牧長義(まき ながよし 生没年不詳)が「小林城」を築きました。
小林城は、牧 長義が織田信長の妹で「お市の方」の姉にあたる「おとくの方」と過ごす為に築かれた城です。
長義が亡くなった後、小林城は廃城となって、その後の江戸時代には尾張藩2代藩主である徳川 光友(光義)の剣術指南役を務めた柳生 兵庫助利厳(やぎゅう としよし 1,579年~1,650年2月16日)の屋敷となりました。
現在では、「清浄寺」となっており、平成3年には、高さ5メートル重さ35トンの「平成のジャンボ延命大地蔵菩薩」が建立されました。
鳴海荘の末森村(現在の千種区城山町)に織田信秀が「末森城」(すえもりじょう)築城をしました。
その後、天文22年(1,553年)城主の織田信勝が加賀の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)から分霊を迎えました。
末森城の中に白山社を祭ったものが、廃城後も近隣の人々の信仰を受けて維持され、明治時代になってから近隣の神社と合祀されて、「城山八幡宮」となりました。
ちなみに末森城は、縁起の良い名前という事で『末盛城』とも書かれていました。
1,554年(天文1年) 寅年(とら年)
8月10日(火)先負
現在の名古屋市北区成願寺付近で織田信長の家臣である柴田勝家と敵対する河尻与一・織田三位による「安食の戦い(あじきのたたかい)」がありました。安食の戦いは、中市場合戦とも呼ばれています。結果は、河尻与一・織田三位以下三十騎が討ち死しにし、織田信長側の勝利となりました。
美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、織田信長と濃姫の婚約を取り纏めた織田家の重臣である平手政秀(ひらて まさひで 1,492年6月4日~1,553年2月25日)が織田信長の奇行を憂い、自身の死で諌めました。
その後、織田信長は平手政秀を弔う為に、小牧山の南にある小木村(現在の小牧市小木)に「政秀寺」を創建しました。
政秀寺は、1,612年(慶長15年)に、中区栄の現在地に移転しました。
1,555年(弘治1年) 卯年(うさぎ年)
織田信秀の死によって、家督を継いだ織田信長が主家である尾張半国守護代の織田信友(おだ のぶとも 生年不詳~1,555年5月10日)を滅ぼしました。
1,556年(弘治2年) 辰年(たつ年)
9月27日 (木)先負
「稲生の戦い」(現在の西区稲生)が発生しました。
この稲生の戦いは、織田信長と弟である織田信行(おだ のぶゆき 生年不詳~1,558年12月11日)との家督争いから起きた戦いです。
1,557年(弘治3年) 巳年(へび年)
11月2日 (月)仏滅
織田信之が兄である織田信長が病にかかっていると聞き、訪れた清洲城の北櫓・天主次の間で、信長の命を受けた家臣の河尻秀隆(かわじり ひでたか 1,527年~1,582年7月7日)らに暗殺されました。
(兄弟による織田家の家督争いの顛末です。)
1,562年(永禄5年) 戌年(いぬ年)

6月24日( 日)
槍の名手である戦国武将 加藤清正(かとう きよまさ 1,562年7月25日~1,611年8月2日)が尾張国の愛知郡中村(名古屋市中村区)で生れました。
清正の領地であった熊本などでは、現代でも『清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)』と呼ばれ、多くの人々に親しまれています。
元亀・天正年間(1,570~1,592年)
尾張領主が庄内用水 (惣兵衛川=そうべいがわ)を開削させました。
庄内用水は、尾張の6大用水の一つで、水路の総延長が28kmに及び、名古屋市の西半分である北区、西区、中村区、中川区、港区を流域とする名古屋市内最長の用水路です。
その後の庄内用水の主な歴史として、1,647年 (正保4年)に熱田新田の干拓が始まる事で、庄内用水は更に南へと延長されました。
1,877年 (明治10年)には、取水用の元杁樋門(もといりひもん)が現在の庄内川水分橋付近(北区と守山区の境)に造られ、矢田川の下を庄内用水が潜り抜け、庄内用水や黒川に分流されました。
なお、庄内用水は明治時代の頃が用水路として最も使わていました。
その後、庄内用水沿いの田畑が住宅や工場に変わった事で、次々と支流が廃止されて現在の形になったそうです。
現在でも、中村区日比津町で庄内用水は、中井筋(惣兵衛川)と稲葉地井筋 (稲葉地川)とに分流され、流域の農地の灌漑や工業用水に利用されています。
1,573年(天正元年) 酉年(とり年)

織田信長の弓衆である安井将監(やすい しょうげん 1,573~1,592年)や浅野長勝(あさの ながかつ 生年不明~1,575年10月13日)が、安井城(北区)を築く際、鬼門の守護神として「山神社」を建立しました。
ちなみに、山神社にある「お福稲荷」は、昭和の初め頃、昔からあった小さな稲荷に、改めて京都伏見の稲荷大社から勧請して、「お福神社」と名付けて山神社のある場所に遷座させました。
白竜社につきましては、殺された白蛇の祟りを鎮める為に建てられたという伝説があります。
ちなみに、山神社の東側には、「旧木曽街道(御殿様街道=小牧街道=犬山街道)」東片端(現在の東区)~中山道の伏見宿(現在の岐阜県御嵩町)が通っており、道沿いには地元の人が集まるボリュームたっぷりの寿司屋さん「お福ずし」があります。
1,576年(天正4年) 子年(ねずみ年)
前田利家によって、荒子観音の本堂が再建されました。
ちなみに荒子観音は、前田利家の菩提寺であり、この時自身の甲冑を寄贈しています。
1,601年(慶長6年) 丑年(うし年)

「宮宿(現在の熱田区)」が東海道五十三次の41番目の宿場となって、西隣の桑名までは『七里の渡し』(しちりのわたし)として、海上で連絡される様になって、渡船場である宮宿と桑名宿は大きく栄えて旅籠屋数で、それぞれ東海道における1位と2位と言った大きな規模な宿馬として誇りました。
なお、七里の渡しとは、満潮時に陸地沿いの航路が約7里(27㎞)あった為、そう呼ばれるようになったそうです。
1,607年(慶長12年) 未年(ひつじ年)
徳川家康が第九子義利、後の徳川義直(とくがわ よしなお 1,601年1月2日~1,650年6月5日)尾張初代藩主に任じました。
尾張藩は、尾張地方に加えて、美濃、信濃、三河、近江、摂津のそれぞれ一部を領地とする約62万石の大藩でした。
また尾張藩は、広大で肥沃な濃尾平野や良材に恵まれた木曽の山などが領地だった事から、実際には石高以上の収入があったと言われています。
7月20日~10月頃
『尾張藩領内の検地』が行われました。
1,608年(慶長13年) 申年(さる年)
知多半島から移住する住民を募り、東海道沿いに新しい集落として「有松」(現在の緑区有松)が開かれました。
1,609年(慶長14年) 酉年(とり年)
ほぼ天下を手中に収めた徳川家康が『名古屋遷府令』を発布し、九男である義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築く事を定めました。
1,610年(慶長15年) 戌年(いぬ年)

1月9日(土)友引
名古屋城が築城開始されました。
その際、名古屋城の天守閣は、加藤清正、小堀政一(こぼり まさかず 1,579年~1,647年3月12日)、大工頭の中井正清(なかい まさきよ 初代京都大工頭 1,565年~1,619年3月7日)が築きました。
また、名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は、一対で慶長大判1,940枚分、純金にして215.3キログラムの金が使用されたと言われています。
1月22日(金)先負
徳川家康は、熱田の大工棟梁である岡田又兵衛のその息子又七郎に「名古屋までの御船入りの議」を提出させました。
2月3日(水)仏滅
加藤清正が名古屋城『御城御築総大将』に任命されました。
6月
福島正則が須崎神社で安全祈願を行い、築城地の竜ノ口から熱田までの開削作業を開始させました。
8月28日(土)仏滅
名古屋城の天守石垣工事が完了したため、加藤清正が熊本に帰国しました。
9月
徳川家康が名古屋城の築城と清洲からの遷府を決定し、『清州越し』が行われました。
清州越しとは、慶長15年(1,610年)から元和2年(1,616年)頃までに行われた徳川家康の命による移住政策の事で、低湿な清洲から、高台で軍事、交通の要衝になる那古野台地に城を移す事を計画し、名古屋城を築城するとともに、家臣、商人、職人、神社、仏閣をそっくり名古屋に移住させました。
その事によって、名古屋城の本町(現在の名古屋市中区丸の内)及び、名古屋城西側の御園町(現在の中区御園通=伏見通の一つ西筋)や堀川の西側(現在でいう西区の四間道周辺です。)に商人達がこの地に住み着いて作られた城下町ができました。
《その他1,610年(慶長15年) 名古屋のできごと》
堀川の開削に伴って、五条橋、伝馬橋が架けられました。
納谷橋の下流東側に尾張藩の年貢米を収納する蔵が清須から移築させました。
加藤清正が海運守護を祈願し、熱田白鳥の堀川右岸(現在の愛知電機敷地内)に「波止神社」を建立させました。
建築資材運搬用の運河として、徳川家康が福島正則(ふくしま まさのり 1,561年~1,624年8月26日)に堀川開削の命令を出す事で、堀川開削(伊勢湾~熱田台地を沿った名古屋城付近の西側まで)が着手されました。
現在の名古屋市中村区の堀川に『堀川七橋』の1つである「納屋橋」が架けられました。
納屋橋の由来は、橋の西側に魚屋(なや)、や納屋が多くあり、そこから付けられた地名の納屋町から採られたという説と、橋の南東に尾張藩の米蔵が多くあった事から名付けられたとする説の2つがあります。
有松に移り住んだ住人、竹田 庄九朗(生誕不詳)が1,610年(慶長15年)から1,614年(慶長19年)にかけて行われた名古屋城の築城のために九州から来ていた人々の着用していた絞り染めの衣装を見て、当時生産が始められていた三河木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを街道を往来する多くの人々におみやげとして売り始めました。
有松絞の最盛期には、100以上の絞り技法があったそうです。
こういった事が現在ある有松絞のルーツとなっています。
1,611年(慶長16年) 亥年(いのしし年)
1月上旬
城下町で火事があり、新造の町屋150戸が延焼してしまいました。
3月
徳川家康が上洛の途中、名古屋城の城郭を巡視しました。
6月
築城地の竜ノ口から熱田までの区間が筏で通行可能になりました。
6月6日
堀川の伊勢湾から熱田までの開削工事が開始されました。
9月
伊勢湾から竜ノ口まで船入りが可能になりました。(総延長約6,300m、川幅約63~87m、水深約1.8m)
《その他1,611年(慶長16年) 名古屋のできごと》

原田右衛門が熱田奉行になりました。
松坂屋のルーツである呉服小間物商「いとう呉服店」が伊藤蘭丸祐道(いとう すけみち 1,563年~1,615年)により、名古屋本町で創業しました。
徳川家康の命によって、岐阜県羽島市桑原町大須にある真福寺寶生院(大須観音)が中区大須に移転されました。
その後、大須観音の周りにある街、大きく発展していきました。
大須観音を中区に移転させた理由としては、木曽川沿いの中州にある大須観音の書物が水害によって、散逸しない様、台地上に移転したと考えられています。
ちなみに、その当時の北区や西区周辺の神社や寺院(八龍社、神明社、天神社、六所神社‥)は、小高い盛土の上に建てられたものが多く、庄内川や新川の氾濫から社や寺院を守る目的や住民の避難場所と言った目的もあったそうです。
1,612年(慶長17年) 卯年(うさぎ年)

5月
名古屋の検地と町割りが完了しました。
12月
清須越しの商人である知多屋の青木新四郎(現在の名エン株式会社の祖)が大船町に移住しました。
青木新四郎(生没不詳)は、塩問屋として勝手方御用達十人衆となりました。
《その他1,612年(慶長17年) 名古屋のできごと》

名古屋城の天守閣が完成しました。
昔、名古屋城は「大坂城」・「熊本城」と共に天下の三名城と呼ばれていました。(城の床面積は、全国一番の大きさです。)
また、「名城(めいじょう)」・「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」・「金城(きんじょう)」‥と言った異名を持っています。
名古屋城下の検地と町割が実施されました。
当時の城下町は、広い台地と低地とを巧みに利用した東西52町(約5.7km) 、南北55町(約6.0km)の逆三角形の都市でした。
徳川家康が駿河街道の宿場町として、平針村(現在の天白区平針)を現在の場所に移動させ、「平針宿」を開かせました。
その際、平針宿には問屋場(人馬や駕籠(かご)などを用意して、旅人達の便宜を図る場所)も置かれました。
また、平針村を移転させる見返りとして、しばらく免税の特権がありました。
ちなみに平針という地名は、「平墾(ひらはり)」が転化されたものらしいです。
1,614年(慶長19年) 寅年(とら年)
名塚村(現在の名古屋市西区名塚町)が庄内川の北側(現在の庄内緑地のあたり)から、現在地に移転してきました。
また、同時期に新福寺村から、新福寺が移転してきました。
山脇五郎左衛門源助(やまわきいずみ けごろうさえもんげんすけ 1,596年~1,659年)が尾張藩初代藩主である徳川義直(とくがわ よしなお=1,601年1月2日~1,650年6月5日)に召し抱えられた事によって、名古屋の狂言が誕生しました。
清須越しの商人である、伊藤家が大船町に移住しました。
1,615年(元和年) 戌年(ねずみ年)
豪商の小出庄兵衛(こいで しょうべい 生涯不詳)が摂州音羽村(現在の大阪府茨木市)から住まいを尾張に移して、丸栄のルーツであった「十一屋」の屋号で小間物商を始めました。
現在、名古尾市港区にある十一屋町という地名は、小出庄兵衛の屋号であった「十一屋」に由来しています。
初代尾張藩主、徳川義直の婚礼の際、父家康が結婚祝いに「木曽山」を贈りました。
その後木曽山は、尾張藩の直轄地となりました。
1,616年(元和2年) 辰年(たつ年)
熱田魚市場は、尾張藩の保護を受ける代わりに毎年定額の運上金の納付を行う事になりました。
東海道五十三次の四十位置番目の宿宮の宿から、桑名に渡る「七里の渡し」が開かれました。
堀川の水運を利用して堀川の納谷橋から五条橋の西側あたりで肥えもの屋の商いが始められました。
1,622年(元和8年) 戌年(いぬ年)
庄内川の「枇杷島橋」(現在の名古屋市西区)が架設されました。
その後、枇杷島橋は幾度の災害で何度も架け替えられ、現在の枇杷島橋は、1,956年(昭和31年)に愛知県によって架けられもので、『日本百名橋』にも選ばれています。
1,624年(寛永初期) 子年(ねずみ年)
名古屋七間町の卸槌屋小右衛門(生誕不詳)によって、『大八車=木製の人力荷車』が発明されました。
これについては、諸説あります。
1,625年(寛永2年) 牛年(うし年)
成瀬正虎が熱田の浜に常夜灯を設置しました。
1,629年(寛永6年) 巳年(へび年)
堀川の東岸(現在の熱田区)に「白鳥貯木場」がつくられました。
なお、原田右衛門が初代材木奉行になりました。
1,631年(寛永8年) 未年(ひつじ年)
尾張藩内でキリシタン詮議が行われ、キリスト教徒57人が処刑されました。
(今では信じられないけど、その当時キリスト教を信仰するのも大変な時代でした。)
1,632年(寛永9年) 申年(さる年)
8月14日(土)仏滅(旧暦)
名古屋市南区のあたりに隕石が落下したそうです。
どうでもいいけど、8月14日は小林塗装店主「小林ゆず」の誕生日です。
1,633年(寛永10年) 酉年(とり年)
堀川沿いの木ノ免、大瀬子(現在の熱田区)に魚問屋が8件置かれました。
1,634年(嘉永11年) 戌年(いぬ年)
7月4日(火)先負
徳川家光が上洛する際、名古屋城に駐泊しました。
《その他1,634年(嘉永11年) 名古屋のできごと》
熱田・神戸の浜に東浜御殿が建てられました。
「別称=お茶屋御殿」
徳川義直が、七里の渡しの迂回路である「佐屋街道」を開設しました。
佐屋街道は、海上が悪天候の場合、船酔いをする人、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人達は、七里の渡しを敬遠し、七里の渡しの迂回路として盛んに利用されました。
佐屋街道が開設された際には、佐屋街道の宿場町として万場宿(現在の名古屋市中川区)等が設置されました。
名古屋市の老舗和菓子屋「両口屋是清」のルーツである饅頭屋が那古野本町で猿屋三郎右衛門(さるや さぶろうえもん 生誕・死没不明)によって、創業されました。
ちなみに、両口屋是清という名称は、1,686年(貞享3年)尾張藩2代目藩主である徳川光友から「御菓子所 両口屋是清」の直筆表看板を拝領した事が由来になっています。
1,635年(嘉永12年) 亥年(いのしし年)
6月
暴風雨が発生し、尾張藩内の家屋に大きな被害が生じました。
1,636年(嘉永13年) 子年(ねずみ年)
佐屋街道沿いの砂子村(現在の大治町砂子)の宿場と差し替えられ、岩塚宿(現在の中村区岩塚町)が設置されました。
1,646年(正保3年) 亥年(いぬ年)
熱田新田の開発に伴う用水確保のため木津用水を経由させ、木曽川の水を引く計画が立てられました。
犬山城主の成瀬正虎(なるせ まさとら 1,594年~1,663年6月14日)が昭和区にある「隼人池(はやといけ)」をため池として作りました。
現在の名東区(一部天白区)に灌漑用のため池である「牧野が池」が作られました。
かつて、牧野が池の周辺は、尾張徳川家の御狩場でした。
現在の牧野が池は、渡り鳥の飛来地としても知られています。
1,647年(正保4年) 亥年(いぬ年)
「熱田新田」の開拓が着工されました。
熱田新田の開拓規模は、東の堀川から西の庄内川にまで至り、現在の熱田区西部から中川区、港区の2区にわたる地域で、熱田新田が干拓される事で石高や耕地が大きく増えました。
また当初、「御新田」(ごしんでん)と言われた新田は、全体が33に分割され、それぞれに西国三十三か所の観音を奉り、新田開発の守護仏としました。
1,651年(慶安4年) 卯年(うさぎ年)
現在の名古屋市東区筒井に「建中寺」が建立されました。
建中寺は、二代目尾張藩主徳川光友(とくがわ みつとも 1,625年8月31日~1,700年11月26日)が父である第一代藩主徳川義直の菩提を弔う為に建立し、江戸時代を通じて代々の尾張藩主の廟が置かれていました。
1,652(承応元年) 辰年(たつ年)
8月2日
尾張藩の三代目藩主である徳川綱誠(とくがわ つなのぶ 1,652年9月4日~1,699年7月1日)が誕生しました。
1,654年(承応3年) 午年(うま年)
七里の渡し北西に「西浜御殿」が建てられました。
(面積1,331坪=約4,400㎡)
名古屋の町中人口は、54,932人 (男性: 27,741人,女性: 27,191人)でした。
1,655年(明暦元年) 未年(ひつじ年)
豊後(現在の大分県)から移住した医師である三浦玄忠(みうら げんちゅう 生没不詳 なお、医師であった事や玄忠という名前については正確な情報ではありません。)の妻によって、豊後絞りの技法が有松や鳴海に伝えられ、有松の絞り染めが大きな進歩を遂げました。
この際に伝えられた絞り技法は、三浦絞り、あるいは豊後絞りの名前で呼ばれ、現在にも伝わっています。
なお鳴海絞りでは、『三浦玄忠夫人が鳴海絞りの開祖』と伝えられています。
1,660年(万治3年) 子年(ねずみ年)
「万治大火(まんじのたいか)」によって、名古屋城下の武家屋敷120軒、町屋2,247軒が焼失しました。
そのでき事がきっかけに「広小路」(15間=約27.3m)つくられました。
1,659年(万治2年) 亥年(いのしし年)
名古屋の町中人口は、55,127人 男性: 27,951 人、女性: 27,176 人でした。
1,661年(万治4年) 丑年(うし年)
3月19日(土)友引(旧暦)
尾張藩2代目藩主である徳川光友が堀川と、当時は遠浅の海だった熱田で船遊びをしました。
朝日丸という御座船に乗って、堀川を下り、熱田では新義丸に乗り換え、漁の様子を見物したそうです。
1,662年(寛文2年) 寅年(とら年)
堀川の両岸は、素掘りだったため冬季になると崖の土が崩れるため、付近の町人が補強しました。
1,663年 (寛文4年) 卯年(うさぎ年)
尾張藩の命令で、堀川両岸を石垣にする仰せが出されました。
その石垣を作る際には、岐阜県南濃町の石「河戸石」が多く使われました。
徳川光友の命令で、「御用水=辻村用水(つじむらようすい 現在の北区辻町)、巾下用水(はばしたようすい 現在の西区城西)」の用水開削工事が着工されました。
御用水や巾下用水が庄内川から開削される理由は、堀川の西側の町は、かっては海だったので井戸の水に塩分が混じり、水質が悪く、また矢田川の上流は瀬戸の陶土地帯の為、流砂が多く、用水に多くの砂が流れ込んでしまい、用用水の維持管理が難しく、飲み水としても適していなかったからです。
そのため、矢田川の北にある守山区竜泉寺南付近の庄内川から導水する事になりました。
御用水が作られる事によって、名古屋城お堀の龍ノ口から、水が落とされ堀川に少しだけ流れができました。
1,664年 (寛文4年) 辰年(たつ年)
3月
大火があり、町屋170件が焼失してしまいました。
名古屋の町中人口は、54,998 人 男性: 28,515人、女性: 26,483人でした。
1,665年 (寛文5年)巳年(へび年)
1月
尾張藩内に書留奉行(かきとめ ぶぎょう)と社寺奉行(しゃじ ぶぎょう)が配置されました。
1,666年(寛文6年) 午年(うま年)
7月
大雨が降り、尾張藩内で大きな被害が発生しました。
山崎川の源流の一つである、名古屋市千種区の「猫ヶ洞池(ねこがほらいけ 上池・下池)」が完成しました。
猫ヶ洞池は、尾張徳川家二代目藩主徳川光友の命令によって、農業用ため池として作られたものです。
江戸時代には、猫ヶ洞池を水源とする猫ヶ洞用水が作られて、御器所方面の灌漑用水に使われた他、大曽根屋敷(徳川光友の隠居所 現在の東区徳川園)付近にも、ここからトンネルを掘って水を供給していたと言われています。
なお、猫ヶ洞池が作られた当時この地は、「金子山(かねこやま)」呼ばれており、それが猫ヶ洞の由来とも言われています。
1,669年(寛文9年) 酉年(とり年)

3月
名古屋城天守閣の修理が行われました。
(木の反り、狂い、腐朽菌などによる経年劣化の天守閣修理)
6月
名古屋城の「三の丸石垣」が崩れてしまいました。
9月
西区幅下周辺で流れていた「巾下用水」が完成しました。
《その他1,669年(寛文9年) 名古屋のできごと》
津田富春によって、現在の熱田区新尾頭に妙安寺が創建されました。
名古屋の町中人口は、55,849人で、男性が28,880人、女性は26,969人でした。
1,671年(寛文11年) 亥年(いのしし年)
徳川光友の命によって、辰巳市左衛門蛾が現在の西区城西に紙漉所を開きました。
それにちなんで、その後の1,872年(明治5年)から1,980年(昭和55年)10月22日まで紙漉町(かみすきまち)という地名が付いていました。
1,671年当時、現在の守山区周辺の人口は、人口4,591人、15ヶ村、648戸でした。
1,672年(寛文12年) 子年(ねずみ年)

現在の北区山田町に「山田天満宮」が建立されました。
山田天満宮は、尾張徳川家の二代目藩主である徳川光友が、尾張藩の学問祈願所、並びに名古屋城の鬼門守護神として太宰府天満宮から菅原道真の神霊を勧請して、作られたものです。
名古屋の町中人口は、56,636人で、男性が29,661人、女性は26,975人でした。
1,676年(延宝4年) 辰年(たつ)

名古屋城のお堀まできれいな水を流すため、庄内川から取水した御用水を矢田川の下をくぐらせる「伏越 (ふせこし)」が造られました。 当時の伏越は木製の為、その後も腐朽するたびに何度も造り替えられました。
徳川光友の命によって、熱田の蔵福寺に『時の鐘』が設置されました。 時の鐘は、1,907年(明治40年)まで使われていました。
夏、枇杷島の庄内川が氾濫しました。
1,681年(天和元年) 酉年(とり年)
7月・8月
夏場に発生した暴風雨によって、多くの田畑が流されてしまい、十分な農作物の収穫ができず、藩の蔵米で救済しましたが、餓死者が多く発生しました。
1,684年(貞享元年) 子年(ねずみ年)
名古屋の町中人口は、54,118人で、男性が28,239人、女性は25,879人でした。
1,685年(貞享2年) 丑年(うし年)
名古屋城天守屋根の修理が行われました。
1,688年(元禄元年) 辰年(たつ年)

八事山に「興正寺」が建立されました。
興正寺は、尾張藩二代目藩主徳川光友の帰依を受け、尾張徳川家の祈願寺として繁栄し、「尾張高野」とも呼ばれています。
佐野屋與右衛門(さのや こうえもん 生没不詳)によって、味噌、醤油作りを生業とする「佐野屋」が創業しました。 230年後の1,918年(大正8年)12月に、6つの醸造家が合弁し「名古屋味噌溜株式會社」という名称で、現在のキッコーナ株式会社のルーツである会社が設立されました。
1,689年(元禄2年) 巳年(へび年)
名古屋の町中人口は、57,843人でした。
1,690年(元禄3年) 午年(うま年)
現在の中区橘に「東別院(真宗大谷派名古屋別院)」が建立されました。
東別院は、尾張藩第2代藩主である徳川光友よって、織田信秀の居城「古渡城」の跡地である約1万坪の寄進を受け造られました。
他にも光友は、若宮八幡社の整備や橘町の開発など城下町南部の都市計画を積極的に行いました。
1,694年(元禄7年) 子年(ねずみ年)
名古屋の町中人口は、55,665人でした。
1,695年(元禄8年) 牛年(うし年)
名古屋仏壇のルーツである仏壇の専門店「ひろや」が創業しました。
当時、尾張藩では既に宮大工、寺大工職人であった人達が分業化して仏壇を製造していたものと思われます。
その後は、尾張藩による仏壇業者の保護などによって、今日の名古屋仏壇があります。
1,696年(元禄9年) 戌年(いぬ年)
10月28日 (木)赤口
尾張藩第3代藩主である徳川綱誠(とくがわ つなのぶ 1,652年9月4日~1,699年7月1日)の二十男として徳川宗春(とくがわ むねはる 1,696年11月22日~1,764年11月1日)が名古屋で生まれました。
1,700年(元禄13年) 辰年(たつ年)

名古屋城の西側で大火があり、1,600軒余りが焼失してしまいました。
後に尾張藩4代藩主である徳川吉通(とくがわ よしみち 1,689年10月29日~1,713年9月15日)は、堀川沿いにある商家の焼失を避けるために、当時の熱田から岐阜へ向かう街道「美濃路」の1つ西側で、堀川から西に2本目の中橋から五条橋までの道幅を4間(約7m)に拡張させました。
この事から、その地域周辺が「四間道(しけみち)」と呼ばれる様になったと言われています。
ちなみに現在の四間道は、名古屋市の散策コースとして、近くにある円頓寺商店街等と共によく取り上げられ、おしゃれなカフェやレストラン、飲み屋、雑貨屋が多くあり、注目の観光スポットとなっています。
1,702年(元禄15年) 午年(うま年)
船入(中村区・中区の堀川沿い)に塩問屋(しおとんや=塩を取り扱う問屋)が置かれました。
1,707年(宝永4年) 亥年(い年)

熱田に『時の鐘が設置』されました。
10月14日(金)先負
地震によって破損した名古屋城天守閣の修繕が行われました。
1,709年(宝永6年) 丑年(うし年)
3月
名古屋城天守閣の修理が行われました。
(この年の名古屋城天守閣修繕の理由は、建物の構造的な狂いによるものらしいです。)
1,720年(享保5年) 子年(ねずみ年)

3月
名古屋城天守閣の修理が行われました。
その際には、金シャチの修繕も行われました。
1,721年(享保6年) 丑年(うし年)
12月13日(土)仏滅
名古屋城二の丸南屋敷に怪盗が入り、たんすなどが切り割られました。
1,722年(享保7年) 寅年(とら年)
8月14日(金)先負
暴風雨によって、尾張の町が大きな被害を受けました。
またその際、熱田地区は高潮による大きな被害を受け、100人以上が亡くなりました。
1,724年(享保9年) 辰年(たつ年)
現在の西区円頓寺(えんどうじ)周辺で大火がありました。
天王崎船番所が洲崎神社の堀川左岸に移されました。
1,726年(享保11年) 午年(うま年)
名古屋城金シャチの修理が行われました。
1,727年(享保12年) 未年(ひつじ年)
12月
伝馬町(熱田区)、七間町(中区錦)、本町(中区)に「火の見櫓(ひのみやぐら)」が設置されました。
1,728年(享保13年) 申年(さる年)
「名古屋城天守閣」の修理が行われました。
天白川の氾濫を抑えるために山崎川との間に水路が開削されました。
しかし、これによって山崎川や天白川の氾濫が増えてしまい、元文6年(1,741年)あるいは寛保2年(1,742年)に水路は埋め戻されたと伝えられています。
1,729年(享保14年) 酉年(とり年)

将軍 徳川吉宗(とくがわ よしむね 1,684年11月27日~1,751年7月12日)の命令で、ベトナムから象が運ばれてきて、長崎から江戸に歩いて向う途中で、尾張の街を通りました。
1,730年(享保15年) 戌年(いぬ年)
第七代尾張藩主に徳川宗春が就き、名古屋の商業都市化を大きく推進させました。
後にこういった宗春の開放政策は、幕府の威信が揺らぐと考える幕府の将軍や武士と、尾張藩を持ち上げる朝廷である天皇や貴族との間で、宗春と尾張藩は徐々に政略的に板挟みとなっていきました。
1,732年(享保17年) 子年(ねずみ年)
徳川宗春が西小路、富士見原、葛町(にしこうじ、ふじみはら、くずまち=現在の中区大須周辺)に遊廓を設けました。(しかし、4年後に統合されました。)
また、同年名古屋繁栄の趣旨のもと、洲崎神社で舟祭りを行いました。この祭りは明治20年まで行われました。
1,733年(享保18年) 牛年(うし年)
堀川左岸の闇の森(くらがりのもり)八幡社内(現在の名古屋市中区)で畳職人の喜八さんと遊女の小さんの心中未遂事件が発生しました。
当時江戸幕府は、心中という行為に対し「人間の行いではない」、「動物と同じ」、「死んだものは丸裸にして、野外に捨て置け」とと考えてそうです。
したがって、この様な心中未遂も大変重罪で、両方が生き残った場合、生き延びた男女は3日間さらし者にされた上、身分を落とされる決まりになっていました。
宗春は法の定める通り、二人を三日間のさらし者にしました。
しかし、宗春は3日間の処罰が過ぎた後、喜八さんと遊女の小さんを許し、親元へ帰したそうです。
後に二人は、晴れて夫婦になり、男の子に恵まれたそうです。
この情話は、浄瑠璃『名古屋心中』なりました。
また、この浄瑠璃は名古屋だけでなく、江戸でも上演され、大変好評だったそうです。
1,734年(享保19年) 寅年(とら年)
名古屋城天守閣の修理が行われました。
1,735年(享保20年) 卯年(うさぎ年)

徳川宗春が将軍家八代徳川吉宗から拝領した朝鮮人参や甲州甘草‥を御下屋敷の御薬園で栽培を始めました。
1,736年(享保21年) 辰年(たつ年)
3月
尾張の遊廓を最も高級な西小路の1カ所にまとめ「西小路遊廓(現在の中川区山王橋付近)」ができました。
4月中旬
西小路遊廓で失火があり、茶屋や遊女屋が焼失しました。
その後、西小路遊廓は営業禁止となって、遊郭跡の荒れ野原には、夜鷹(よたか=街頭に立った遊女)が現れる様になったそうです。
1,739年(元文4年) 未年(ひつじ年)
1月
尾頭橋に「七橋供養」碑が建てられました。
1月12日(月)赤口(旧暦)
徳川宗春が将軍徳川吉宗から、蟄居(ちっきょ=出仕や外出を禁じて、自宅の一室に謹慎させる刑罰)を命じられました。
宗春の開放政策は、幕府である吉宗が進める「享保の改革」の趣旨に反するもので、尾張藩の藩政が乱れ、人々が困窮したという理由です。
但し、実際は宗春に蟄居を命じたのは、将軍吉宗ではなく、老中の松平乗邑(まつだいら のりさと 1,686年1月31日~1,746年6月4日)や尾張藩の御附家老である竹腰正武(たけのこし まさたけ 1,685年~1,760年1月25日)をはじめとする国元の尾張藩重臣達が宗春の失脚を画策し、宗春を蟄居させたらしいです。
ですから、宗春の蟄居に対し、将軍吉宗は使者を遣い、「何か不足しているものはないか?」、「鷹狩りや魚捕りができずに気鬱にならないか?」‥と宗春にかなり気を遣っていたという記録も残っています。
宗春が蟄居し、徳川宗勝(とくがわ むねかつ 1,705年7月22日~1,761年7月23日)が八代目藩主となると、尾張は六代目藩主である徳川継友(とくがわ つぐとも 1,692年3月25日~1,731年1月5日)の時代の法令が復活し、質素倹約が奨励されました。
そのため、名古屋城下の賑わいは、火が消えた様になったと言われています。
蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったと言われています。
1,740年(元文5年)申年(さる年)
7月22日
台風によって、名古屋城天守閣の一部が破損してしまいました。
1,742年(寛保2年)辰年(たつ年)
名古屋城に金蔵が建てられ、金蔵に金銀が納められました。
庄内用水の取水口が稲生村から、川村に変更されました。
矢田川の下をくぐる伏越し(暗渠)が完成しました。
1,743年(寛保3年)亥年(いのしし年)
納屋橋が改築されました。
1,746年(延享3年)寅年(とら年)

現在の名古屋市北区山田町4丁目に金運招福や商売繁盛の御利益があるとされ、銭洗いで知られる「金神社(こがねじんじゃ)」が創建されました。
その後、金神社は昭和58年(1,983年)に山田天満宮に合祀されました。
1,748年(寛延元年)辰年(たつ年)
9月4日(水)赤口
儒教家である蟹養斎(かに ようさい 1,705年~1,778年10月4日)が、巾下に私塾巾下学門所「時習館」を設けました。
(なおこの学門所は、宝暦元年(1,751年)経営難に陥り、閉じられました。)
1,750年(寛延3年)午年(うま年)
名古屋の町中人口は、72,583人でした。
1,752年(宝暦2年)申年(さる年)
3月
名古屋城天守閣の大修理が行われました。(石垣修理、瓦の交換‥‥)
1,757年(宝暦7年)牛年(うし年)
大雨で名古屋市北部で洪水が発生しました。
1,765年(明和2年)酉年(とり年)
4月
名古屋市北部で洪水が発生しました。
8月
尾張藩の第9代藩主である徳川宗睦(とくがわ むねちか 1,733年10月27日~1,800年1月14日)によって、洪水対策の治水工事が行われました。
1,767年(明和4年) 亥年(いのしし年)
大雨によって、矢田川の堤防が決壊し、流路が大きく北に変わったため、長母寺(ちょうぼじ=1,179年、山田重忠(やまだ しげただ 生誕不明~1,221年7月6日)の開基によって創建)‥が守山から切り離されました。
なお、その当時は現在の矢田川橋から、天白区菅田のあたりまでは一面が大きな池となっていたそうで、矢田川は、長母寺の南を流れていた為、長母寺と宝勝寺(現在の守山区)とは地続きだったそうです。
(今じゃ、全くその面影すら残っていないです。)
1,768年(明和5年) 子年(ね年)

瀬古村(現在の守山区瀬古)付近の住民からの願いで、豪雨の度に周辺の山々からの水が溢れて水害を起こしていた事から、白沢川の流域に堤を築いて堰き止めると共に、北側の山を開削して庄内川へ流れるように流路を付け変えられました。
当時の白沢川は、川村、大森垣外、大永寺、金屋、幸心、瀬古(現在の守山区周辺)‥に大水による甚大な被害を度々与えたので、五ヶ村悪水とも呼ばれていたそうです。
なお、現在の白沢川は、名古屋市の準用河川で、「白沢町」や「白沢小学校」の地名や校名のルーツにもなっています。
1,770年(明和7年) 寅年(とら年)
呉服町(現在の名古屋市中区)から出火し、大火となりました。
1,773年(安永2年) 巳年(み年)
伊勢、尾張地方に大変な風水害が発生しました。
1,779年(安永8年) 亥年(い年)
8月
庄内川が豪雨によって洪水となり、川沿いの名古屋市守山区志段味、北区味鋺、西区比良、大野木周辺で堤防が決壊し、辺り一面は泥の海となり、民家や田畑は水没してしまいました。
1,782年(天明2年) 寅年(とら年)
徳川宗睦が、庶民90歳以上、家臣80歳以上の調査を行い、長寿の人びとに対し「養老」の祝典を開き、祝品を送りました。
1,783年(天明3年) 卯年(うさぎ年)

徳川宗睦によって、「尾張藩藩校 明倫堂」(愛知県立明和高等学校の前身)が開校しました。
明倫堂の初代督学(校長)は、現在の東海市出身の儒学者の細井平洲(ほそい へいしゅう=1,728年~1,801年)でした。
秋頃、現在の名古屋市西区の大野木町周辺にあたる大野木村の庄内川堤防が決壊寸前になり、徳川宗睦が応急の工事を命じました。
その際、徳川宗睦は熱田神宮に領民の安全を祈願しに行きました。その事を知った近隣の領民約2,000人が無償で大野木の堤防修理を願い出ました。
細井平洲とその門下生もこの堤防修理工事に参加したそうです。
徳川宗睦も巡視に向かい、領民たちに酒などを振る舞いました。
このでき事は、「徳川宗睦の人徳によるものだ。」と多くの人々に讃えられました。
1,784年(天明4年) 辰年(たつ年)
堀川の浚渫が行われました。
大幸川を堀川に繋ぐ工事が行われました。
大幸川とは、名古屋市東区及び北区を流れ、西区児玉の江川に流下する川の事です。
後に大幸川は、昭和時代初期の大不況の際、名古屋の都市開発や市内の失業者救済対策が目的で、大幸川の整備が進められ、大部分が暗渠(あんきょ=地下に埋設したり、ふたをした水路)となって、太幸幹線になりました。
この太幸幹線は、昭和50年頃まで砂田橋バス停の付近で太幸川の流れが見られたそうです。
ちなみに現在の北区猿投橋の下流にあたる黒川左岸には、大雨の際に大幸幹線(大幸川)から黒川へ雨水を流す排水口があります。
1,785年(天明5年) 巳年(み年)
3月 朝日橋が架けられました。
5月 大幸橋が架けられました。
1,787年(天明7年) 未年(ひつじ年)

名古屋市北区と西区の境にある「洗堰(あらいぜき)」が造成されました。
また、庄内川の増水時には、洗堰から水を流し、大蒲沼(現在の北区大我麻町のあたり)に水を貯め、その水を放流する為に新川が開削されました。
天明4年から行われた洗堰造成の総工費は、40万両(天明7年当時の1両を現在の約75,000円で換算すると、何と約300億円!!)と言われています。
1,788年(天明8年) 申年(さる年)
尾張藩の負債が215,000両に上り、尾張藩立藩以来の財政危機に達しました。
この危機を乗り越えるため、尾張藩から「米札」(=尾張藩で発行された米の量とその金銭に換算する札)が発行されました。
1,790年(寛政2年) 戌年(いぬ年)
「上香流橋」が架けられました。
1,792年(寛政4年) 子年(ねずみ年)

名古屋市北区にある水路「三郷悪水(さんごうあくすい(悪水=排水)」が開削されました。
この三郷とは、当時の西春日井郡旧福徳村、下中切村、成願寺村の事を指しています。
現在三郷悪水は、北区福徳ポンプ所や福徳雨水調整池がつくられた事によって、雨水の排水能力が強化されたため、平成5年(1,993年)に下水幹線に造り変えられ、三郷悪水の跡は、人工のせせらぎになっています。
1,793年(寛政5年) 丑年(うし年)
尾張藩の十代藩主である徳川斉朝(とくがわ なりとも 1,793年9月27日~1,850年5月11日)が誕生しました。
1,794年(寛政6年) 寅年(とら年)
大森と印場(守山区と尾張旭市)の間で、舟橋用水の水利権をめぐって争いが起きました。
1,796年(寛政8年) 辰年(たつ年)
森高新田の「三十三観音」 が造られました。
1,800年(寛政12年) 辰年(たつ年)
熱田前新田の干拓が着手されました。
1,801年(享和元年) 酉年(とり年)
熱田前新田が(現在の名古屋市港区)完成しました。
現在の熱田前新田は、熱田奉行である津金文左衛門胤臣(つがね もんざえもん たねおみ 1,727年10月23日~1,802年1月22日)が開発した新田にちなんで名付けられた地名です。
1,802年(享和2年) 酉年(とり年)
名古屋城本町門の石垣が崩落してしまいました。
1,804年(文化元年) 子年(ねずみ年)
御普請奉行(ごふしんぶぎょう 土木関係の諸業務や上水の管理の役職)の堀弥九郎(ほりや くろう 生誕不詳)が、日置橋の南北の両岸、数百メートルに桃と桜の木を植えました。
後の文政5年(1,822年)頃には、茶屋、料理屋など20軒あまりが店を構え、梅や桜の花の季節ともなれば、堀川両岸を行き交う花見客の群衆、川には花見船も出るなど、大変な賑わいであったと伝えられてれています。
1,805年(文化2年)丑年(うし年)
大森と庄中(守山区と尾張旭市)の間で、野田用水の水利権をめぐって争いが起きました。
1,806年(文化3年) 寅年(とら年)
鳴海の宿場町東の入り口(現在の名古屋市緑区鳴海平部町)に「常夜灯」が建てられました。
常夜灯は、旅人の目印、宿や道中の安全を祈願して造られたもので、石灯籠の四面には「永代常夜灯」、「宿中為安全」、「秋葉大権現」、「文化三丙寅正月」との文字が刻まれています。
1,808年(文化5年) 辰年(たつ年)

現在の天白区八事の興正寺に『五重の塔』が建立されました。
現在、興正寺にある五重の塔は、東海三県に現存する唯一の木造五重塔として、国の重要文化財に指定されています。
なお、江戸時代の八事周辺は、「音聞山(おとききやま)」などを含めた景勝地でもあったので、寺社への参詣と遊山を兼ねた「山行き」と言われる行楽には格好の地域と言われていたそうです。
1,815年(文化12年) 亥年(い年)
6月
大雨に見舞われ、庄内川の枇杷島小橋が流され、天白川の野並周辺の堤防が切れて浸水し、熱田の八丁畷(熱田神宮と笠寺を結ぶ道)や緑区鳴海付近で浸水しました。
1,816年(文化13年) 子年(ね年)
尾張藩の藩債を清算する為、「米札」が発行されました。
1,817年(文化14年) 丑年(うし年)
10月5日(日)友引
名古屋に滞在していた浮世絵師、葛飾北斎(かつしか ほくさい 1,760年10月31日~1,849年5月10日)が名古屋西掛所(西本願寺別院)の境内にて、『120畳大の達磨半身像を描くイベント』が開かれました。
1,804年~1,830年頃(文化~文政時代)
江戸時代末期の文化~文政期にかけて、名古屋の町人文化は、大変栄えたそうです。
名古屋城下町でも、南端の南寺町の東に接する旧前津の小林村一帯(現在の中区上前津周辺)は不二見原と呼ばれ、眺望が良く、普通の農村とは趣が異なった場所でした。
この風光明媚な地域は、江戸時代にわたって武家や町人の別荘・別宅、隠居所‥が多く建てられ、尾張藩上級武士で俳人でもある横井也有(よこい やゆう 1,702年10月24日~1,783年7月15日)や兵法師範の柳生厳包(やぎゅう としかね 1,625年~1,694年11月27日)、俳人の久村暁台(くむら きょうたい 1,732年10月19日~1,792年2月12日)、画家の山田宮常(やまだ きゅうじょう 1,747年~1,794年)・張月樵(ちょう げっしょう 1,765年~1,832年7月19日)・児島老鉄(こじま ろうてつ 1,793年~1,852年)・小田切春江(おだぎり しゅんこう 1,810年~1,888年10月19日)‥多くの知識人や文人達が次々と移り住む事で、酔雪楼に代表される貸し座敷や料亭ができ、俳諧、書画などの会合が頻繁に開かれました。
こういった事は、葛飾北斎の浮世絵である富嶽三十六景にも「尾州不二見原」として紹介されました。
また、城下町からは、美濃街道、木曽街道、下街道、岡崎街道‥尾張周辺へ繋がる街道が伸び、城下町の南方5.5km程の場所に位置する熱田の町とは、本町通(熱田道)で結ばれていました。
明道町では、(現在の西区新道や幅下周辺、全国最大規模の駄菓子問屋街)のあたりで美濃路を通る旅人に、尾張藩の下級武士らが手内職として、煎餅や飴菓子等を売って、大いに栄えました。
ちなみに明道町が本格的に『駄菓子問屋街』として栄えたのは、関東大震災以後の事です。
1,819年(文政2年) 卯年(う年)
6月
文政近江の地震によって、尾張の城下町の寺などに被害が発生しました。
1,820年(文政3年) 辰年(たつ年)
『名古屋の芸者評判記』という本が発行されて、尾張藩士の中で、『芸者遊びの必須の書』として話題となりましたが、藩によって、発行が禁止されました。
1,821年(文政4年) 巳年(み年)
尾張藩普請方の武士奥村得義(おくむら のりよし 1,793年9月22日~1,862年8月20日)、が名古屋城築城の資料を収集しました。
1,822年(文政5年) 午年(うま年)
尾頭橋で舟祭りが行われました。1,825年(文政8年) 酉年(とり年)
潜水術の達人である森島左衛門(もりしま さえもん 生誕不詳)が名古屋城にあるお堀の水深調査を行いました。
この潜水調査には、約1か月かかり、お堀の隅々まで調査されました。
その際、森島左衛門は、潜水中に落命寸前になったりして、とても大変な調査だったようです。
(後に森島左衛門は、潜水病にかかってしまい、体調のの回復に時間が掛かったそうです。)
1,826年(文政9年) 戌年(いぬ年)

11月11日(土)先負
大須観音の門前で『ヒトコブラクダ2頭の見せ物』がありました。
このラクダは、文政4年(1,821年)にオランダ船によって長崎にやってきたものです。
大須観音の門前の会場は、まるでお祭りのような騒ぎになったそうです。
なお、見せ物会場の入場料は32文(800円ぐらい)でした。
このできことは、尾張藩士であった、高力種信(こうりき たねのぶ 1,756年〜1,831年)がまとめた「絵本駱駝(らくだ)具誌」にまとめられています。
守山区の森高新田に「八釼神社」を勧請ました。
広井村(現在の・中村区名駅周辺)の人口は、約7,000人に近い人々が暮らしていました。
1,828年(文政11年) 子年(ねずみ年)
納屋橋の北西で料理屋「得月楼」(~1,944年)が創業しました。
1,829年(文政12年) 巳年(へび年)
名古屋城金鯱の大修理が行われました。
1,830年 (文政13年) 寅年(とら年)

中島屋茂兵衛(なかじまや もへい 生誕不詳)が堀詰(現在の名古屋市西区幅下)で、『つけてみそ、かけてみそ』のテレビコマーシャルでおなじみのナカモのルーツである米糀製造販売業を創業させました。
その後、中茂商店となって、白味噌や金山寺味噌の製造販売を行いました。
尾張藩で精進川の改修が計画されましたが、改修は実行されませんでした。
1,833年(天保4年) 巳年(へび年)

熱田沖から新田水路に、一匹のアザラシが迷い込みました。
(その顛末は不明です。)
納屋橋が改築されました。
1,835年(天保6年) 未年(ひつじ)
この頃発生した天保飢饉によって、御器所村(現在の昭和区御器所)の火葬場には毎日10~20人以上の死者が運ばれたそうです。
1,836年(天保7年) 未年(ひつじ)
名古屋城天守の修理が行われました。
東本願寺(現在の中区橘)付近に小屋を設け、病人や貧しい人々に粥を配りました。
(小屋は、天保9年に廃止されたそうです。)
1,837年(天保8年) 酉年(とり年)
白鳥古墳の陵上の樹が台風の際に倒れてしまい、内部の石室が露出してしまいました。
ちなみに白鳥古墳は、熱田神宮社伝では、「日本武尊の陵」となっています。
暴風雨と洪水によって、矢田川流域の瀬古で堤防が切れてしまいました。
1,839年(天保10年) 亥年(いのしし年)
1月19日(土)仏滅
熱田神宮にある八剣宮の御神体を妖僧が盗み出しましたが、未遂に終わりました。
(妖僧って、一体どんな僧侶なんだろう?)
1,841年(天保12年) 丑年(うし)
名古屋に移住した西川流の初代家元である西川鯉三郎(にしかわ こいさぶろう 1,825年1月18日~1,899年2月25日)が、「名古屋 西川流」を創設しました。
1,844年~1,847年(弘化年間)

天白村(現在の天白区)の豪農、山田善兵衛が陸奥国(現在の宮城県)の「鹽竈神社(しおがまじんじゃ)」の御分霊を祀り、塩釜神社が創られました。
1,845年(弘化2年)巳年(たつ年)

善光寺街道入口である山田村(名古屋市北区山田)にて、初代大阪屋善兵衛が「金虎酒造株式会社」のルーツである酒造業を創業させました。
1,850年(嘉永3年)戌年(いぬ年)
8月
大雨が降り続いたため、天白川(現在の瑞穂区中根町のあたり)で破堤し、笠寺から伝馬町周辺が浸水しました。
8月
堀川での魚取りやシジミ取りが解禁されました。
1,851年(嘉永4年)亥年(いのしし年)
10月
熱田沖で、尾張藩水軍の大演習がありました。
この大演習は、船140隻が参加し、徳川 慶勝(とくがわ よしかつ 1,824年4月14日~1,883年8月1日)が御座船「名古屋丸」に自ら乗って、検閲したそうです。
1,853年(嘉永6年) 丑年(うし年)
3月
尾張藩が現在の中区丸の内周辺に桜の木を植えました。
(この景色は、明治30年くらいまで眺望できたそうです。)
3月
尾張領内の産業振興策として、堀川の夜間通航が可能になりました。
それまでは、堀川の夜間通航が禁止されていましたが、夕七つ(午後四時)以降も通航できるようになりました。
『頭痛にノーシン』で有名な株式会社アラクスが創業しました。
(創業当初は、「鎰長」(いっちょう)という名前でした。)
1,854年 (嘉永7年) 寅年(とら年)
11月4日(日)大安(旧暦)
「安政 東海地震」が発生しました。
この地震によって、名古屋城の高見櫓、武家屋敷等に大きな被害がでました。
当時は、寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれました。
1,855年(安政2年) 午年(うま年)

2月1日(木)友引
矢田川の河原で大砲の試し打ちが行われました。
7月26日(木)赤口~29日(日)先負
矢田川で洪水が発生しました。
その際、御膳洞(ごぜんぼら 現在の守山区御膳洞)の雨池も氾濫しました。
また暴風雨によって、新田堤防が決壊し、大きな被害が生じました。
緑区大高で、「神の井酒造」が創業しました。
1,858年(安政5年) 卯年(うさぎ年)
玉屋町の宿屋笹野屋庄兵衛(ささのや しょうべい 生誕不詳)や本町商人笹屋荘兵衛(ささのや そうべい 生誕不詳)が大須観音の北にある北野新地に役者や芸人を集め、遊廓がつくられました。
1,860年(万延元年) 申年(さる年)
2月
尾張藩が現在の中区丸の内周辺に桜の木を増殖しました。
5月
暴風雨により、伊勢湾に高潮が起こり、現在の名古屋市港区小川付近の堤防が切れた事によって小川付近で浸水しました。
5月月
豪雨によって矢田川で洪水が発生しました。
1,863年(文久3年) 亥年(いのしし年)
5月7日(木)仏滅
熱田沖にアメリカから購入した汽船「神力丸」が到着しました。
この神力丸によって、尾張藩水軍の軍事力が大きく向上しました。
1,865年 (元治2年)丑年(うし年)
佐藤東兵衛が東春酒造株式会社のルーツである造り酒屋「龍田屋」を創業させました。
1,867年 (慶応3年)卯年(うさぎ年)
8月28日(水)大安
『ええじゃないか』が名古屋でも起こりました。
民衆が仮装するなどして、囃子言葉の「ええじゃないか」‥を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊りました。
「ええじゃないか」に関する祭事は約7日間に及び、その間は日常生活が麻痺したらしいです。
ええじゃないかの際には、若宮八幡の門前町で、伊勢外宮の御札がたくさん降りそそぎました。
1,868年(慶応4年)(明治元年) 辰年(たつ年)

1月20日(月)から25日(土)
尾張藩で発生した佐幕派(幕府を支持する)の立場を執る「ふいご党」を弾圧する事件「青松葉事件」が発生しました。
青松葉事件処罰の対象者は、藩の重臣から一般藩士にまで及び、斬首14名、処罰20名にのぼりました。
その当時、尾張藩の藩政は、成瀬隼人正(なるせ はやとのかみ)家と竹腰兵部少輔(たけのこし ひょうぶしょうゆう)家が取り仕切っており、藩主である徳川慶勝も遠慮しなければならないといった家柄から、その権力は強大でした。
当時、藩内は尊皇攘夷(天皇を尊び、外敵を斥けようとする思想)を唱える「金鉄組」と、佐幕的(幕府を支持する)な立場を執る「ふいご党」とに分かれ、成瀬家は金鉄組、竹腰家はふいご党に近かったと言われています。
5月
豪雨によって、庄内川の堤防が相次いで決壊してしまい、庄内川右岸の高蔵寺村から味鋺村(北区味鋺)の一帯が冠水し、瀬古村、幸心村(守山区瀬古、幸心)、小田井輪中(西区小田井)周辺でも大きな被害が出ました。
9月8日(水)仏滅
明治に改元されました。
1,869年(明治2年) 巳年(へび年)
6月11日(金)赤口
尾張藩が「名古屋藩」に改称されました。
徳川義宜氏(とくがわ よしのり 1,858年7月4日~1,875年11月24日)が名古屋藩の藩地事になりました。
《その他1,869年(明治2年) 名古屋の出来事》
名古屋藩の明倫堂(現在の愛知県立明和高等学校)が「学校」に改称されました。
東区の「東鮓本店」が「東鮓」として開業しました。
寿司職人の横井清七氏が「東鮓」として創業し、1,882年(明治15年)に二代目清次郎氏が家業を継ぐにあたって「東鮓本店」と称しました。
1,870年(明治3年) 午年(うま年)
6月
名古屋藩立「洋学校」(現在の旭丘高校の前身)が七間町に開設されました。
ちなみに現在の旭丘高校は、愛知県の公立高校入試において最難関の公立高校で、自由闊達な校風から、地元の名古屋大学だけではなく、関東の東京大学、慶應義塾大学、早稲田大学や関西の京都大学、大阪大学‥といった名門大学に進学する生徒も多いです。
12月10日(土)先負
名古屋城の金鯱を宮内庁に献上する事が決定しました。
《その他1,870年(明治3年) 名古屋の出来事》
名古屋で初めて人力車を販売しました。
名古屋市内で人力車の販売が開始されました。ただし販売開始当初は、評判が悪くあまり売れませんでした。
1,871年(明治4年) 未年(ひつじ年)
3月28日(火)先負
名古屋城の金鯱を宮内庁に献上する際、鱗3枚が盗難に遭いました。
犯人の陸軍名古屋分営の番兵であった北田義方は、銃殺刑になりました。
6月7日(水)大安
名古屋城の金鯱が箱に詰められ、宮内庁に送られました。
7月14日(金) 先勝
廃藩置県よって、名古屋藩が名古屋県(翌年、愛知県に改称)になりました。
名古屋県庁は、名古屋城内に置かれ、県庁所在地になりました。
《その他1,871年(明治4年) 名古屋の出来事》
名古屋最初の新聞「名古屋新聞」が発行されました。毎月3回発行されたそうです。
県では、各区各町村に配達し、発行ごとに購入するよう奨励しました。官報的な新聞だったそうです。
中区長者町に西洋料理店「和洋軒」がオープンしました。
郵便役所を鉄砲町に設置しました。(郵便制度)
明治4年当時の人口は、71,618人でした。
1,872年(明治5年) 寅年(とら年)
4月2日(金)先負
名古屋県が愛知県に改められました。
11月15日(金)友引
学制施行によって、石仏村善昌寺(現在の昭和区)に第27番小学松榮学校(現在の広路小学校)が創立しました。
11月27日(水)友引
額田県が廃止され、愛知県として統合されました。
《その他1,872年(明治5年) 名古屋の出来事》
名古屋で清涼飲料ラムネが販売されまいた。
1,873年(明治6年) 酉年(とり年)

1月9日(木)仏滅
東京鎮台(とうきょうちんだい)第3分営が「名古屋鎮台(なごやちんだい)」に改称されました。
なお、鎮台とは、1,871年(明治4年)から1,888年(明治21年)まで国内の反乱鎮圧と対外防衛のための備えとして置かれた日本陸軍の編成単位の事で、常設されるものとしては、最大規模の部隊単位でした。
6月1日 (日)大安
「平針郵便取扱所」(現在の天白区平針)が開設されました。
11月5日(水) 赤口
御器所八幡宮の南側にあった同社神官所有の藁葺き小屋において、「第25番小学叢雲学校」(現在の御器所小学校)が創立しました。
校名である「叢雲」とは、熱田神宮の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草薙剣(くさなぎのつるぎ))に由来すると言われています。
《その他1,873年(明治6年) 名古屋のできごと》
名古屋に初めて「公衆便所」が設けられました。
しかし、利用方法が分からず、破壊されてしまう事が度々あったそうです。
現在中区の鳶屋外七(生没不詳)が洋傘の製造を始めました。
旧東海道の宿場町、宮宿(現在の熱田区)陣屋跡地にひつまぶしの老舗「あつた蓬莱軒」が創業しました。
当初は単なる日本料理店でしたが、明治末期に現在のひつまぶしに似たうなぎ料理を出したところ、それがお客さんに好評を博し、以来ひつまぶしが蓬莱軒の看板料理となったそうです。
なお、蓬莱軒という店名は、その昔熱田の地が蓬莱あるいは、蓬莱島と呼ばれていた事にちなんでいます。
現在の北区鳩岡町に城北小学校のルーツである「義校安井学校」が創立しました。
ちなみに城北小学校がある鳩岡町という地名の由来は、現在の名古屋市立城北小学校のプール付近にあった高さ1メートルほどの塚に金の鳩が埋められているという伝説があった事から、名付けられたと言われています。
この塚は、学校を建設する際に壊されており、塚からは金の鳩ではなく、骨の入った壷が出土したと言われてます。(とほほ‥‥)
現在、この壷は名古屋市博物館に保管されています。
また、当時この地域に多くの鳩がいた事から、鳩岡と呼ばれる様になったという説もあります。
1,874年(明治7年) 戌年(いぬ年)
2月26日(木)仏滅
名古屋鎮台が佐賀の乱に出征しました。
5月1日(金)赤口~6月10日(水)大安
「名古屋博覧会」が東本願寺名古屋別院で開催されました。
名古屋博覧会では、名古屋城天守閣の金鯱、中根村(現在の名古屋市瑞穂区)で出土した銅鐸など骨董や古器物が多く展示されました。
なお、博覧会の内容が好評だった為、会期が10日延長されました。
8月
丸屋名古屋支店「丸屋善八店(書店・薬店)」が開店しました。
10月
大須観音の北、堀川より東にある5箇所の遊郭を移転させ、「北野新地」が公認の遊廓に指定されました。
《その他1,874年(明治7年) 名古屋の出来事》
行燈に代わって石油ランプが流行しました。
1,875年(明治8年) 亥年(いのしし年)
5月
名古屋城郭内が一般人の通行が禁止されました。
《その他1,875年(明治8年) 名古屋のできごと》
北野新地の遊廓が西大須に移転しました。
新しい遊郭は、北野新地があった日之出町にちなんで「旭廊(旭遊廓)」と名付けられました。
旭廊の最盛期には、妓楼173軒、芸妓、娼妓1,728人を数えたと言われています。
名古屋で天然痘が流行しましたが、くまなく予防接種を行ったので、被害を最小限に抑える事ができました。
明治8年当時の人口は、109,982人でした。
1,876年(明治9年) 子年(ねずみ年)
6月8日(木)友引
「伊保街道」、「伊奈街道」と記されていた道が「飯田街道」に改名されました。
明治9年当時、飯田街道の起点は現在の天白区平針で、中村楽の泥江町が起点になったのは、1,885年(明治18年)2月の事です。
《その他1,876年(明治9年) 名古屋のできごと》
愛知県下の小学校で、夏休みが実施されるようになりました。
夏休みの期間は、7月は、午前7時登校、正午下校、8月1日~8月31日までが完全な夏休みといった内容でした。
中区大須の大光院内に愛知高校の前身である「曹洞宗専門支校」が創立されました。
後の昭和23年(1,948年)に新制愛知高等学校が設立され、中学校と併せて「愛知学院」と総称しました。
1,877年(明治10年) 丑年(うし年)
2月10日(土)先負
名古屋鎮台の歩兵第6連隊が西南戦争に出征しました。
5月10日(木)大安
初めての「愛知県議会」が開かれました。
《その他1,877年(明治10年) 名古屋のできごと》

名古屋きしめんの有名店「なごや きしめん亭」が創業しました。
矢田川の「三階橋(現在の北区と守山区)」が架設されました。
以前の三階橋は1,927年(昭和2年)に架けられ、両側の歩道橋は1,968年(昭和43年)に架けられたたもので、現在の三階橋は2,017(平成29)年3月25日に架けられたものです
ちなみに矢田川の「矢田」とは、『尾張国地名考』によると、地元の尾張国春日部郡「山田」の『ま』が省略されたものとされます。
愛知県技師の黒川治愿氏(くろかわ はるよし 1,847年5月29日~1,897年5月29日)によって、「黒川」の開削が完了しました。
また、その際には、御用水や庄内用水などの水量を確保するとともに、犬山と名古屋を結ぶ航路として黒川が開削されました。
それに伴い、矢田川の伏越も舟が通れる構造になりました。
なお、黒川治愿氏は、愛知県下で多くの土木事業に関わり、立田輪中での鵜戸川延長や、明治用水開削、犬山の入鹿池堰堤の改修(明治12年)、木津用水閘門、岡崎の乙川改修(明治15年)、名古屋の堀川改修(明治16年)‥といった、愛知県の発展に貢献するたくさんの事業を務め、黒川治愿氏が係った土木工事の事を刻んである石碑は愛知県下19ケ所に現存しています。
ちなみに、北区の堀川の別称である黒川は、堀川開削を行った黒川治愿氏を讃えた事が由来です。
大須演芸場の北側に「浪越公園」が開設されました。
浪越公園は、名古屋市内で一番古い公園です。当時の浪越公園内には、ビリヤード場、待合茶屋、温泉施設、割烹店、写真館などがあったそうです。
その後、明治41年11月に浪越公園は廃止され、大正3年に「那古野山公園(浪越公園の約10分の1の大きさ)」となって開園し、現在に至っています。
新聞の読売が流行しました。
1,878年(明治11年) 寅年(とら年)

9月15日(日) 友引
「愛知県博覧会」が総見寺境内に建設された名古屋博物館で、同年11月3日まで開催されました。
9月27日(金) 仏滅
金シャチが愛媛の博覧会から熱田港に戻ってきました。
10月20日(日) 先負
もう1匹の金シャチが東京の博物館から熱田港に戻ってきました。
12月20日(金) 先勝
郡区町村編制法によって、「名古屋区」が設置されました。
12月20日(金) 先勝
吉田禄在氏(よしだ ろくざい 1,838年11月9日~1,916年3月3日)が名古屋区長に任命されました。
吉田区長は、初めて街路系統樹立の必要性を認め、南外堀町線、栄町線、若宮八幡、社北通線及び山王横町線の4幹線の貰通を計画しました。
特に栄町線は、幾多の障害があったにも関わらず工事を進め、今日の広小路通の繁栄の基礎を築きました。
また吉田区長は、戸籍整備、窮民救助基金設定、南海道線敷設斡旋、道路・橋梁・溝渠改修、伝染病避病院隔離病舎創立、名古屋城金鯱の復旧と保存、米商会所設立、第十一国立銀行開設‥名古屋の発展に力を尽くしました。
《その他1,878年(明治11年) 名古屋のできごと》
北区と守山区の庄内川を結ぶ「水分橋」が架設されました。
明治11年当時、名古屋区の人口は、113,562人でした。
1,879年(明治12年) 卯年(うさぎ年)

1月15日(水)仏滅
金シャチの補修を行い、翌月2月13日、金シャチが名古屋城天守閣に戻されました。
12月
軍政家である山縣有朋氏(やまがた ありとも 内閣総理大臣(第3代、第9代) 1,838年6月14日~1,922年2月1日)が「名古屋城」と「姫路城」の城郭の保存を決定しました。
《その他1,879年(明治12年) 名古屋のできごと》

名古屋ういろうの老舗「青柳総本家」が創業しました。
青柳総本家は、名古屋のういろうの老舗で、生産量・販売数は日本一です。
名古屋人にはおなじみの「白、黒、抹茶、上がり、コーヒー、ゆず、さくら」という歌詞のテレビコマーシャルは、昭和44年に開始されました。
明治12年当時、名古屋区の人口は、114,898人でした。
1,880年(明治13年) 辰年(たつ年)
明治13年当時、名古屋区の人口は、117,421人でした。
《その他1,880年(明治13年) 名古屋の出来事》
名古屋で西洋酒が流行しました。
1,881年(明治14年) 巳年(へび年)
4月16日(土)友引
名古屋区長である吉田禄在氏が、熱田湾築港(名古屋港)の明治天皇の行幸に伴って、名古屋を訪れた大隈重信大蔵卿(おおくま しげのぶ 1,838年3月11日~1,922年1月10日)に陳情しました。
9月1日(木) 友引
「伊藤銀行(旧東海銀行)」が設立されました。
11月
地租改正に反対する、現在の守山区瀬古周辺の農民5,000人が東海、北陸を旅行中の明治天皇に直訴しようと決起しましたが、地元代表の説得によって解散しました。(直訴していたら、日本の歴史が大きく変わって気がします。‥‥)
《その他1,881年(明治14年) 名古屋の出来事》
乗合馬車が開業しました。
1,882年(明治15年) 午年(うま年)

暴風雨によって、庄内川の堤防が決壊しました。
名古屋の高級ブランド地鶏「名古屋コーチン」が誕生しました。
名古屋コーチンは、池之内村(現在の小牧市池之内)で元尾張藩の砲術師範であった養鶏家の海部荘平氏(かいふ そうへい 1,847年10月3日~1,895年10月1日)と弟の海部正秀氏(かいふ まさひで 1,852年~1,921年1月)が、10年以上の歳月をかけて試行錯誤した結果、中国から入手した大きくて多産であるバフコーチンと尾張地方の地鶏を交配する事で誕生しました。
当時その鶏は、肉質と産卵能力が優れ、強健である事から評判となって、『海部鶏』と呼ばれる様になりました。
その後、尾張藩出身の人々が関西方面に養鶏場を開き、海部鶏を広めた際、名古屋地方からた来た鶏という事で、名古屋コーチンと呼ばれた事が定着し、その後も「名古屋コーチン」と呼ばれる様になりました。
ちなみに第76、77代内閣総理大臣である海部俊樹氏は、海部荘平氏の遠縁にあたるそうです。
1,884年(明治17年) 申年(さる年)
1月1日(火) 先負
当時、名古屋区の人口は、128,998人でした。
《その他1,884年(明治17年) 名古屋のできごと》
尾張藩士であった水谷忠厚氏(みずたに ただあつ 1,841年8月23日~1,892年4月5日)によって、矢田川橋(木製)が架設されました。
名古屋市立名古屋商業高等学校の前身である「愛知県名古屋商業学校」が設立されました。
明治30年(1897年)から大正7年(1918年)まで校長を務めたのが市邨芳樹氏(いちむら よしき 1,868年3月28日~ 1,941年1月1日)です。
市邨芳樹氏は、広島県立尾道商業高等学校、名古屋経済大学市邨中学校・高等学校、高蔵高等学校・中学校の創立者でもあり、『女子商業教育の父』として称えられています。
1,885年(明治18年) 酉年(とり年)
月1日(木) 友引
当時、名古屋区の人口は、130,014人でした。
1月
豊国神社の一部となる神殿が建立されました。
前年の明治17年、愛知県令の国貞廉平氏(くにさだ れんぺい 1,841年5月12日~1,885年1月18日)が、「一祠を創建して、秀吉公の遺跡を顕彰し、その霊を慰める」を地元住民と約束した事がきっかけとなって、地元の方々が資金調達の依頼や浄財の募集などによって建立されました。
3月
「名古屋商工会議所」が設立されました。
《その他1,885年(明治18年) 名古屋のできごと》
愛知郡荒子村在住の野崎徳四郎氏(のざき とくしろう 1,850年~1,933年3月16日)が白菜の栽培に着手しました。
後の白菜主要生産地として、西区堀越町、中川区大蟷螂町、打出町、中島新町、南区鳴尾町、瑞穂区弥富町、上山町、広路町などがありました。
1,886年(明治19年) 戌年(いぬ年)
1月1日(金)先勝
当時、名古屋区の人口は、129,344人でした。
3月1日(月)友引
愛知県初の鉄道が知多半島の武豊から熱田まで開通する事で、「熱田駅」ができました。
緑区の日本国有鉄道「大高駅」も同日にできました。
大高駅は、名古屋市内では熱田駅とともに最も長い歴史を持っています。
3月18日(木)友引
名古屋株式取引所(旧)が設立されました。
(株の取引開始は、同年7月です。1,889年12月12日解散しました。)
5月1日(土) 赤口
初代の「名古屋駅」(名護屋停車場)が開業しました。
初代名古屋駅舎は、沼地と湿地帯の中に突貫工事で造られ、大きさは、木造の平屋建て約640㎡で、当時の名古屋駅は、現在の名古屋駅よりも南の笹島にあったので、『笹島駅』とも呼ばれていました。
12月31日(金) 赤口
当時、名古屋区の人口は、137,771人でした。
《その他1,886年(明治19年) 名古屋のできごと》
栄町通りを幅員13間~15間(約23.64m~27.27m)に拡幅させました。
1,887年(明治20年) 亥年(いのしし年)

「名古屋~岐阜間」の鉄道が開通しました。
現在の緑区大高で、戸時代築造の酒蔵を譲り受けて「山盛酒造」が創業しました。
清酒「鷹の夢」が有名です。
《その他1,887年(明治20年) 名古屋の出来事》
名古屋でも、西洋料理屋が見られるようになりました。
1,888年(明治21年) 子年(ねずみ年)
5月12日(土)大安
名古屋鎮台が「第3師団」に改組されました。
第3師団とは、大日本帝国陸軍の師団の一つで、名古屋近隣の出身者から構成される陸軍師団でした。
200個を数える陸軍師団でも最も古い師団の一つです。
7月
「新愛知新聞(現在の中日新聞)」が創刊しました。
12月31日(月) 先負
当時、名古屋区の人口は、149,963人でした。
《その他1,888年(明治21年) 名古屋のできごと》
東海高校の前身である「浄土宗学愛知支校」が現在の東区東桜に創立しました。
その後、昭和22年(1,947年)新制東海中学校が発足し、昭和23年(1,948年)新制東海高等学校が発足しました。
東海高等学校の著名な卒業生は、海部俊樹氏(かいふ としき 1,931年1月2日~ 第76・77代内閣総理大臣)、神田真秋氏(かんだ まさあき 1,951年10月1日~)(前愛知県知事)、松原武久氏(まつばら たけひさ 前名古屋市長 1,937年1月26日~)久野忠治氏(くの ちゅうじ 元郵政大臣 1,910年2月27日~1,998年10月25日)‥日本や名古屋の発展に貢献した方々が多くいます。
1,889年(明治22年) 丑年(うし年)

1月19日(土)大安
尾張地方が大雪によって、積雪10cmを記録しました。
10月1日(火)先負
市制施行により、名古屋区(274町)が名古屋市となりました。
当時の市域は現在の中区と東区を中心とする地域で、面積は13.44㎢、人口は157,496人でした。
11月15日(金)先負
名古屋市会議員選挙が初めて行われました。
12月15日(日)
名古屋市内ではじめて電燈がつきました。
12月17日(火)(日)
初代名古屋市長に中村修氏(なかむら おさむ 1,844年1月14日~1,915年6月6日)が就任しました。
《その他1,889年(明治22年) 名古屋のできごと》
アメリカの合衆国長老教会、南長老ミッション宣教師ミセス・ランドルフ(1,827年~1,902年)が私費を投じ、R・E・マカルピン博士(生没年不詳)の協力を得て、「女学専門冀望館」(現在の金城学院)が東区下竪杉町に開校しました。
1,890年(明治23年)寅年(とら年)
3月19日(水)大安
名古屋市役所(現在の中区栄町)が開庁しました。
4月2日(水)友引
明治天皇が音聞山で『陸軍大演習』を統監されました。
11月6日(木)友引
2代目名古屋市長に志水忠平氏(しみず ただひら 1,850年5月25日~1,904年9月23日)が就任しました。
12月31日(水)赤口
当時、名古屋市の人口は、164,849人でした。
《その他1,890年(明治23年) 名古屋のできごと》
名古屋市元田町(現在の名古屋市中区千代田四丁目)に動物商を営んでいた今泉七五郎氏が『波越教育動物園』を開園させました。
波越教育動物園は、今泉七五郎氏(いまいずみ しちごろう 生没年不詳)が所持する動植物一千有余種を整理した上で開園させました。
1,891年(明治24年)卯年(うさぎ年)

10月28日(水)仏滅
濃尾地震(マグニチュード8.4)の発生によって、名古屋市内は名古屋城をはじめ、近代的な建築物であったレンガ造建物の多くが倒壊し、甚大な被害を受けました。
濃尾地震は、明治時代では最大規模の地震で、死者は7,273名、負傷者1,7175名、全壊家屋は14万2,177戸を数えました。
なおこの地震で、枇杷島橋も倒壊してしまいました。
12月31日(木)赤口
当時、名古屋市の人口は、173,642人でした。
1,892年(明治25年)辰年(たつ年)
3月22日(火)先勝
中区大須の宝生座からの出火によって、大須観音(大須観音五重塔・仁王門‥)が全焼しました。(大須大火)
呼続村(現在の南区呼続)農商を営み、俳人でもあった老人が瑞穂台地の西南端の大喜村(現在の瑞穂区大喜町)千本以上の梅を植え梅園を開きました。
その梅園を「晴雪園」と名付け、庵を結び、春には雅客を多く迎え楽しんでいました。
12月31日(土)大安
当時、名古屋市の人口は、182,508人でした。
1,893年(明治26年)巳年(へび年)
11月18日(土)友引
「株式会社名古屋株式取引所」が設立されました。
12月31日(日)仏滅
当時、名古屋市の人口は、191,016人でした。
《その他1,893年(明治26年 名古屋のできごと》
熱田神宮が尾張造(おわりづくり)から神明造(しんめいづくり)に改築されました。
なお、尾張造とは、本殿(後)、祭文殿(中)、拝殿(前)を回廊で繋いだ左右対称の建築様式で、尾張地方独特の神社建築様式の事です。
1,894年(明治27年)午年(うま年)
2月28日(水)大安
3代目名古屋市長に柳本直太郎氏(1,848年4月10日~1,913年3月13日)が就任しました。
12月31日(月)仏滅
当時、名古屋市の人口は、202,812人でした。
1,895年(明治28年)未年(ひつじ年)
12月31日(火)
当時、名古屋市の人口は、211,438人でした。
1,896年(明治29年)申年(さる年)

3月23日(月)大安
愛知郡御器所村大字前津、小林が名古屋市に編入されました。
ちなみに「御器所」という地名は、熱田神宮の祭礼に使用する土器を製作していた地域であった事が由来とも言われています。
また、御器所とその周辺は江戸時代『御器所大根』の栽培が盛んで、明治の末から大正期にかけては、全国でも有数のたくわん漬の生産地となりました。
4月20日(月)仏滅
「愛知銀行」が設立されました。(その後の東海銀行で、現在は三菱UFJ銀行です。)
5月
「名古屋陸軍地方幼年学校」が設立されました。
名古屋陸軍地方幼年学校の生徒数は約50名で、13歳から16歳で入校し、3年間の教育が行われました。
名古屋陸軍地方幼年学校の卒業生は、中央幼年学校に進み2年間の教育を受け、中央幼年学校卒業後は士官候補生となり、各部隊で下士兵卒の勤務(隊附勤務)を6か月間ほど務め、陸軍士官学校に進みました。
大正9年(1,920年)に、名古屋陸軍幼年学校と改称され、 大正12年(1,923年)には一旦廃止され、昭和15年(1,940年)に再び名古屋陸軍幼年学校として小牧の下末に建てられ復活しました。
その後、太平洋戦争の敗戦に伴って、名古屋陸軍幼年学校は、廃止解散し、その後は「中部管区警察学校」となっています。
9月1日(火)赤口
「熱田駅」が現在地の熱田区森後町に移転しました。
9月28日(月)大安
「日本車輌」が奥田正香氏(おくだ まさか 1,847年~1,921年1月31日)によって設立されました。
現在日本車輌は、新幹線をはじめとした鉄道車両、物流を支える輸送用機器、橋梁、建設機械、発電機、営農プラント、超電導リニアの開発まで多彩な設備を設計しています。
9月
庄内川の瀬古(名古屋市守山区)高蔵寺、勝川(春日井市)地域で堤防が決壊しました。
それによって赤痢が流行しました。
12月31日(木)先勝
当時、名古屋市の人口は、237,847人でした。
《その他1,896年(明治29年) 名古屋のできごと》
棚橋絢子女史(たなは しあやこ 1,839年~1,939年9月21日)が「愛知県名古屋高等女学校」を創立させました。
その後、大正元年(1,912年)に名古屋市立第一高等女学校と改名し、昭和23年(1,948年)に現在の校名である「菊里高校」になりました。
1,897年(明治30年)酉年(とり年)
6月19日(土)赤口
中区の劇場「御園座」が開場しました。
7月19日(金)先負
4代目名古屋市長に志水直氏(しみず ただし 1,849年5月13日~1,927年4月26日)が就任しました。
12月31日(金)先勝
当時、名古屋市の人口は、248,915人でした。
《その他1,897年(明治30年) 名古屋のできごと》

現在の名東区で、塀和孝三郎氏(ほり こうざぶろう 生誕不詳)が亜炭の採掘を始めました。
亜炭は石炭に比べて、脆く崩れ易いのですが、亜炭層が地表の近くにあり、容易に採炭する事ができました。
亜炭採掘の最盛期には、高針地区、猪高地区の周辺で年間採掘量3万トンを記録しました。
特に高針地域では良質な亜炭が産出し、鉱山局に重要鉱山として指定されたほどでした。
しかし、昭和20年代のエネルギー革命の波に押され、亜炭の採掘は終わりました。
廃坑に伴って、放置された廃坑道が崩落し、局地的な地盤沈下を起こす「ツボ抜け現象」が起こり事があり、国ではこれらの鉱害対策に1,952(昭和27)年時限立法「臨時石炭鉱害復旧法」を制定しました。
その際、炭鉱の復旧費を全額補償しましたが、2,002(平成14)年3月に失効しました。
現在、廃坑の復旧はその所在など不明な所が多い為、これら石炭廃坑道の問題を解決するのは容易でないと言われています。
1,898年(明治31年)戌年(いぬ年)
1月
大隈栄一氏(1,870年~1,950年)が石町(現在の名古屋市東区泉一丁目、二丁目)で「大隈麺機商会(現在のオークマ)」を興し、うどんやそうめんを作る製麺機の製造と販売を開始しました。
後の昭和36年、大隈鐵工所の常務取締役だった川島米次郎氏(かわしま よねじろう)が矢田工場を継承して立ち上げた中部機械株式会社に麺機製造販売権を譲渡し、現在は株式会社大隈式麺機商会が製麺機を生産しています。
現在のオークマは、ヤマザキマザック、DMG森精機、ジェイテクトと共に日系四大工作機械メーカーの1つです。
5月6日(金)赤口
名古屋電気鉄道の路面電車が「笹島~県庁前」間で運行開始されました。
名古屋の路面電車は、日本で2番目に開業された歴史ある路面電車でした。
その路面電車は、1,974年(昭和49年)に全廃されました。
12月31日(土)大安
当時、名古屋市の人口は、240,534人でした。
《その他1,898年(明治31年) 名古屋のできごと》

那古野村(現在の西区)、古沢村大字東古渡(現在の熱田区)が名古屋市に編入されました。
「愛知時計製造」(現在の愛知時計電機)が創業しました。
「名古屋市内で電話が初めて開通」しました。
名古屋で最初の「洋画展」が開かれました。
1,899年(明治32年)亥年(いのしし年)
12月31日(日)先負
当時、名古屋市内の人口は、252,242人でした。
1,900年(明治33年)子年(ねずみ年)
12月31日(月)友引
当時、名古屋市内の人口は、260,748人でした。
《その他1,900年(明治33年) 名古屋のできごと》
名古屋コーチンで有名な三和コーポレーションのルーツである「伊藤和四五郎商店」を、伊藤和四五郎氏(いとう わしごろう 1,863年~1,943年6月27日)が、創業されました。
1,901年(明治34年)丑年(うし年)
12月27日(金)先負
5代目名古屋市長に青山朗氏(あおやま あきら 1,848年7月29日~1,912年7月24日)が就任しました。
当時、名古屋市内の人口は、267,483人でした。
1,902年(明治35年)寅年(とら年)
8月
名古屋市が上田敏郎氏(うえだ としろう 1,864年~1,912年)に上水道布設調査(名古屋市水道計画の作成)を委嘱しました。
その際、上田氏は「木曽川」の水を引水する案を提出しました。
後の明治40年5月に名古屋市水道技師に専任され、同42年水道技師長となりました。
12月31日(水)先勝
当時、名古屋市内の人口は、275,329人でした。
1,903年(明治36年)卯年(うさぎ年)
7月9日(木)先勝
中区大須にあった「旭遊廓」で大火がありました。
12月31日(木)大安
当時、名古屋市内の人口は、284,829人でした。
1,904年(明治37年)辰年(たつ年)

7月10日(日)先勝
愛知県下で暴風雨が発生し、甚大な被害が発生しました。
11月15日(土)赤口
千種区法王町に仏舎利(ぶっしゃり=釈迦の遺骨)と黄金の釈迦像を奉安するため、「日暹寺(にっせんじ)」が創建されました。
後の1,949年(昭和24年)シャム国がタイ王国への改名に合わせて日暹寺から、「日泰寺」に改名しました。
なお、毎月21日には、縁日が開かれており、日泰寺の境内と約600メートルの日泰寺参道に日用雑貨、生鮮食品、外食の屋台が100店ほど出店し、多くの人で賑わっています。
12月31日 当時、名古屋市内の人口は、292,548人でした。
《その他1,904年(明治37年) 名古屋のできごと》

西区則武新町に日本陶器(現在のノリタケカンパニーリミテド)が設立されました。
この日本陶器の工場は、日本の近代陶器発祥の地と言えます。
なお、社名に使われている「ノリタケ」とは、創立時の地名「則武町」に由来しています。
守山の白沢川を堰き止める緑ヶ池(現在の小幡緑地公園内)が完成しました。
緑ヶ池が完成する事で、明和の改修で逆に水不足となっていた小幡台地周辺での農地開発が進む事になりました。
1,905年(明治38年)巳年(へび年)
4月2日(日)大安
「瀬戸自動鉄道」(現在の名鉄瀬戸線)の矢田~瀬戸間(現在の尾張瀬戸)が開業しました。
6月8日(木)仏滅
現在の名古屋工業大学の前身の一つである、「名古屋高等工業学校」が 愛知郡御器所村 (現在の名古屋市昭和区御器所)に創設されました。
太平洋戦争後に学制改革を受け、愛知県立工業専門学校 (愛工専) と合併する事で、「新制名古屋工業大学」となりました。
12月31日(日)大安
当時、名古屋市内の人口は、298,918人でした。
《その他1,905年(明治38年) 名古屋のできごと》
中区大須にあった旭廓が娼家173軒、娼妓1618人を数えました。
1,906年(明治39年)午年(うま年)
2月 守山区の龍泉寺が放火され、多宝塔、仁王門、鐘楼を除く全てが焼失してしまいました。
その焼け跡から、慶長大判切2枚、慶長小判98枚の入った小判容器が発掘されました。
3月1日(木)友引
「瀬戸自動鉄道」(現在の名鉄瀬戸線)の大曽根~矢田間が開業しました。
5月17日(木)先負
愛知淑徳女学校が「愛知淑徳高等女学校」として認可され、愛知県の私立学校で最初の高等女学校となりました。
なお、愛知淑徳高等女学校の創設者は、小林清作氏(こばやし せいさく 生誕不詳~1,935年9月)です。
6月
名古屋市内の水道・下水道の建設が名古屋市議会で議決されました。
6月27日(水)仏滅
第6代名古屋市長に加藤重三郎氏(かとう じゅうさぶろう 1,862年6月26日~1,933年6月19日)が就任しました。
加藤重三郎氏は、名古屋市長に就任中、上下水道の新設、区の設置等を手懸けました。
後に大正9年(1,920年)衆議院議員になりました。
その他、石川鉄道社長、名古屋電灯(後の東邦電力)社長や東海道電気鉄道(現在の名古屋鉄道)取締役なども務めました。
9月29日(土)先勝
奥田 助七郎氏(おくだ すけしちろう 1,873年~1,954年9月8日)が開港前だった名古屋港に報知新聞社主催による巡航博覧会船「ろせった丸」を入港させました。
「ろせった丸」を入港させた理由は、名古屋港の工事を反対する人達を納得させるといった目的がありました。
11月3日(土)先勝
中日新聞の前身の一つである『名古屋新聞が創刊』しました。
11月5日(月)先負
奥田正香氏(日本車輌の社長)らによって、現在の東邦ガスの前身である「名古屋瓦斯」が設立されました。
12月31日(月)友引
当時、名古屋市内の人口は、307,624人でした。
1,907年(明治40年)未年(ひつじ年)

3月14日(木)友引
和裁裁縫の知識・技能養成を目的に名古屋市旧長島町3丁目に「いとう呉服店裁縫所(経営母体=松坂屋)」が設立されました。
その後の1,946年(昭和21年)に東区横代官町27番地(現在の代官町30)へ移り「常盤女学院」と改称しました。
創立100年目に当たる2,007年(平成19年)に閉校しました。
その後、常磐女学院の跡地は売却され、現在は大型の分譲マンション「ライオンズ プレティナレジデンス」が建っています。
4月15日(月)大安
「愛知県立第五中学校」(現在の瑞陵高校)が開校しました。
6月1日(土)赤口
愛知郡熱田町が名古屋市に編入されました。
当時、「千八百年餘という古い歴史を持つ熱田が、わずか三百年餘の歴史しか持たない名古届へ編入される事は甚だ納得できない。むしろ、名古屋こそ熱田に編入されるべきものである。」‥と言った反対論もあったらしいです。
こういった理由から、熱田町の合併に際しては、旧大字を廃して新町名を付ける時、大字神戸を熱田神戸町、大字内田を熱田内田町という様に、町名には全て「熱田」の2字を冠して、熱田の歴史と伝統に配慇がなされました。
7月16日(火)大安
小碓村大字熱田、新田東組、千年、熱田前新田、稲永新田(共に現在の港区)が名古屋市に編入されました。
11月10日(日)友引
「名古屋港」が開港しました。
当時日本政府は、名古屋港の新設に、一切、手を貸さない状態でした。
そこで、地元の自分達で港を造ろうという事になって、国の補助無しで愛知県と名古屋市が協力して造られたのが名古屋港です。
(名古屋の発展がここから始まったと言えます。)
12月31日(火)先勝
当時、名古屋市内の人口は、354,733人でした。
《その他1,907年(明治40年) 名古屋のできごと》

元祖、味噌煮込みうどんの名店「山本屋本店」が創業されました。
名古屋を代表する老舗酒場「大甚本店」が開業しました。
塗料商社「江口巌商店」が創業しました。
那古野村(現在の西区)、古沢村大字東古渡(現在の熱田区)が名古屋市に編入されました。
「愛知時計製造」(現在の愛知時計電機)が創業しました。
愛知時計製造は、 明治45年7月『愛知時計電機株式会社』へ社名を変更し、時計製造によって培われた技術、資本蓄積から派生した機械、電機、化学部門などを擁し、ついには航空機とそのエンジン製造にまで携わりました。
昭和時代の初期には、九六式艦上爆撃機、九九式艦上爆撃機などを設計、製造していました。
その後、それらの派生部門は愛知化学工業(現在のアイカ)、愛知航空機(現在の愛知機械工業)などに分社されました。
東区布池にあった市邨芳樹の私塾において、日本国内最初の『女子商業』として「名古屋女子商業学校」の入学式が行われました。
1,908年(明治41年) 申年(さる年)

4月1日(水)先負
名古屋の行政区画として、名古屋市に「区」が設置されました。
4月1日(水)先負
名古屋市役所が新栄町の新庁舎へ移転しました。
それに伴って、中区、東区、西区、南区の4区が発足しました。
4月1日(水)先負
「第八高等学校」(現在の名古屋大学)が設立されました。
4月11日(土)先勝
山田才吉氏(やまだ さいきち 1,852年8月19日~1,937年1月31日 守口大根など漬物の製造販売、聚楽園、南陽館などの経営者)が東築地五号地(現在の港区竜宮町)に「名古屋 教育水族館」を建設しました。
名古屋教育水族館は、敷地面積約9,000坪、魚類、鳥類など約1,200種が飼育が展示され、ラグーン風庭園や遊園地を併設しており、当時の一大レジャー施設でした。
入場料は大人10銭、子供5銭でした。
開館から間もない5月1日には、イルカが逃げ出すという珍事が発生しました。
12月31日(木)友引
当時、名古屋市内の人口は、374,146人でした。
《その他1,908年(明治41年) 名古屋のできごと》

安井ミシン商会(現在のブラザー工業)が安井兼吉氏によって、堀田通で創業しました。長男である安井正義氏(やすい まさよし 1,904年4月5日~1,990年8月23日)は、父を助けて9歳の頃から仕事場に立ち、ミシンの技術を覚えたそうです。
1925年(大正14年)兼吉の死去に伴い、正義氏が安井ミシン商会を継承し、安井ミシン兄弟商会に商号を改め、熱田区伝馬町でミシン製造をはじめました。
1,909年(明治42年) 酉年(とり年)

1月25日(月)仏滅
名古屋初の映画館、「文明館」が開館しました。
7月
庄内川にクジラが迷い込んできました。
下之一色のある漁師がこのクジラを捕らえ、クジラを見せ物にする為、津島天神に運搬しようとしましたが、運搬中に死んでしまいました。
(現在だったら、大問題になりそうな事件です。)
10月1日(金)赤口
愛知郡千種町一部(現在の千種区)、御器所町一部(現在の昭和区)が名古屋市に編入されました。
11月19日(金)仏滅
「鶴舞公園」が開園しました。
鶴舞公園は、新堀川の改修工事によって土砂が余る事から、当時の愛知郡御器所村の田地を埋め立てて、公園を造る事になったのが由来です。
12月31日(金)大安
当時、名古屋市内の人口は、389,761人でした。
1,910年(明治43年) 戌年(いぬ年)
2月1日(火)先負
松坂屋の前身である「株式会社 いとう呉服店」が創立されました。
2月28日(月)先勝
「名古屋市歌」が制定されました。
3月1日(火)友引
愛知県博物館が「愛知県 商品陳列所」に改称されました。
3月5日(土)赤口
南区の「千年地先公有水面埋立地」が名古屋市に編入されました。
3月16日(水)先勝~6月13日(月)大安
御器所村(現在の昭和区鶴舞公園)で「第10回 関西府県連合共進会」が開催されました。
関西府県連合共進会の開催期間中には、入場者数は263万2,748人といった多くの入場者が訪れたそうです。
会場内には、機械館・特許館・農産館‥当時の最新技術を展示したパビリオンのほか、不思議館、天女館、活動写真館といった娯楽的な要素をもつ、パビリオンも設置されており、約129,000点の出品展示され増した。
さらに会場内には、名古屋城を模した愛知県売店などもありました。
なお、現在鶴舞公園内にあるシンボル的な噴水塔は、共進会開催を記念して、名古屋開府300年記念会によって建設されたものです。
本格的な古典主義のデザインに基づく8本の円柱をめぐらした円堂形式の噴水塔です。
現在、噴水塔は名古屋市の文化財に指定されています。
4月12日(火)大安
「名古屋開府 三百年記念祭」が名古屋城周辺で開かれました。
名古屋開府三百年の記念として、「新堀川記念橋」が架けられました。
4月25日(月)赤口
八事村にあった八幡社に、一之御前社と高峯社が合祀され、新たに「八事神社」が建立されました。

5月27日(金)仏滅
名古屋の市民の台所「柳橋中央市場」が発足されました。
7月23日(土)仏滅
名古屋市の「上水道敷設工事が着工」されました。
それ以前は、名古屋市の井戸水の6割が飲料に適さない不衛生な状態でした。
10月
中区前津町の「浪越教育動物苑」が大須門前町が移転しました。
11月18日(金)友引
皇太子(後の大正天皇)が中村公園に立ち寄られ、豊国神社の参拝後に松を植樹されました。
12月31日(土)仏滅
当時、名古屋市内の人口は、405,646人でした。
1,911年(明治44年) 亥年(いのしし年)

1月2日(月)先勝
いとう呉服店(現在の大丸松坂屋)、百貨店初の福袋『多可良函』を発売しました。(1個50銭で1日500個販売されました。)
1月15日(日)友引
大須門前町に「愛知県商品陳列館」が開館しました。
2月
「小林瓦斯電気器具製作所」(現在のパロマ)が設立されました。
3月18日(土)先勝
「いとう呉服店少年音楽隊」が結成されました。
いとう呉服店少年音楽隊は、現在の東京フィルハーモニー交響楽団の前身です。
4月22日(土)友引
名古屋で初めて飛行機が飛びました。
5月1日(月)赤口
「中央線全線」が開通し、鶴舞公園で開通式が開かれました。
5月1日(月)赤口
「名古屋港線」が竣工されました。それに伴い「名古屋港駅」が設置されました。
名古屋港線は、名古屋港周辺に建設された貨物支線のうち、最も古い歴史を持つのがこの路線で、名古屋駅を起点として、名古屋港で船との提携による貨物輸送を行うために建設されました。現在では週に3往復だけ列車が走っています。
5月23日(火)仏滅
瀬戸電気鉄道(現在の名鉄瀬戸線)の「土居下~大曽根」間が開通しました。
7月4日(火)友引
第7代名古屋市長に阪本釤之助氏(さかもと さんのすけ 1,857年8月13日~1,936年12月16日)が就任しました。
8月4日(金)先負
精進川が「新堀川」に名称変更されました。
10月1日(日)大安
瀬戸電気鉄道の「堀川~土居下」間が開通する事によって、「堀川駅」が開業しました。
12月31日(土)先負
当時、名古屋市内の人口は、420,608人でした。
《その他1,911年(明治44年) 名古屋のできごと》
矢田川の伏越が当時の新技術「人造石」で改築されました。
1,912年(明治45年) 子年(ねずみ年)
4月
南区稲永新田、錦町において「稲永遊廓」ができました。
稲永遊廓は、その立地条件もあってか、お客さんに船員が多かったそうです。
なお、現在の名古屋市港区にある『錦町』という町名は、遊廓の移転に際して付けられた雅名(がめい=風流な呼び名)であると言われています。
当初、旭遊郭が稲永(現在の港区に錦町)移転する計画でしたが、この移転問題に絡む疑獄事件が発生した事で、旭廓の稲永新田移転の話は立ち消えになってしまい、代わって現在の中村区大門周辺へ引っ越す事になったそうです。
1,912年(大正元年)子年(ねずみ年)

9月9日(月)仏滅
「大正琴」の第1号が発売されました。
ちなみに大正琴の開発者は、名古屋大須の実業家である森田吾郎氏です。
9月23日(月)友引
大暴風雨が発生したため、猪高村尋常高等小学校舎(現在の名古屋市名東区)が倒壊し、民家十数戸が崩壊しました。
10月21日(月)友引
「熱田貯木場」が完成しました。(名港貯木場北池、約40,000坪)
11月13日(水)友引
中区矢場町に「名古屋電気学講習所(現在千種区若水にある愛知工業大学名電高等学校)」が創立されました。
12月8日(日)先負
名古屋市内に初めて「公衆電話が設置」されました。
12月17日(火)先勝
「東郊耕地整理組合」(現在の昭和区)が設立認可されました。
12月31日(火)先負
当時、名古屋市内の人口は、435,219人でした。
《その他1,912年(大正元年) 名古屋のできごと》
愛知郡下之一色村(現在の名古屋市中川区下之一色)で、愛知県を代表するスーパー、ユニーやアピタのルーツである「西川屋」が創業しました。
名古屋市内で、下水道の供用が開始されました。
現在の天白区表山あたりに尾張電気軌道が『八事遊園地』を建設し、開園させました。
八事遊園地には、競馬場、ボート場、猿園、ブランコ、滑り台などが整備され、大人から子供まで一日の行楽を楽しむ事ができました。
後の資料には、「会社や工場の慰安旅行、小学校の遠足でよく賑わい、菓子やまんじゅう、酒類・・を売る店も並んでいた。中でも八事名物として、蕎麦まんじゅう、湯豆腐、紙づくりの蝶などを売る店もあった。」と紹介されています。
その後、八事遊園地は、1,935年(昭和10年)に東山公園ができた事によって、客足が遠のいてしまい、東山動植物園が開園した1,937年(昭和12年)に閉園しました。
1,913(大正2年)丑年(うし年)
3月18日(火)赤口
名古屋市で最初の鉄骨鉄筋コンクリート造の建築物である「共同火災保険 名古屋支店」が竣工されました。
5月5日(月)先勝
中区の「納屋橋」が鋼製アーチ橋に架け替えられ、橋の渡り初め式が行われました。
ちなみにその当時の渡り初め式は、家業が3代夫婦で続いている縁起の良い家の者が最初に渡るという習わしがあったそうで、
納屋橋の西岸のたもとにあったまんじゅう屋の「伊勢屋」と、うどん屋の「山輪辨」が選ばれました。
新装された納屋橋と珍しい渡り初め式への人々の関心は高く、渡り初め式の当日は多くの人が集まったと記録されています。
このできごとを機会にして、「伊勢屋」は「納屋橋饅頭」に改名したそうです。
また、「山輪辨」は当時の坂本名古屋市長より「長命」の名を授かって、「長命うどん」となったそうです。
11月13日(木)先勝~16日(日)仏滅
大正天皇が、音聞山(現在の天白区音聞山)で陸軍の演習を統監されました。
この演習は、4万人以上の規模で模擬戦闘を行う極めて大規模な演習でした。
演習の目的は、大正天皇の姿を国民の前に見せて、国民に日本が安泰である印象を付ける事と、軍隊姿を膨大な数の民衆に向けて国威を見せつける事が目的でした。
このでき事から、その後の音聞山は、「御幸山」の名で呼ばれる様になりました。
現在の御幸山公園には、明治天皇の「明治天皇 八事御野立所」と大正天皇の「御統監之所」の二つの碑が建てられています。
ちなみに音聞山という地名の由来は、「昔、鳴海の海の波音が聞こえた。」という言い伝えが町名の由来と言われています。
また音聞山は、「熱田の海に浮かぶ船も一望できた。」とも言われています。
12月31日(水)仏滅
当時、名古屋市内の人口は、447,951人でした。
《その他1,913年(大正2年) 名古屋のできごと》
旭廓(大須)で大火が発生し、70戸(その多くは遊廓でした。)を焼失しました。
1,914年(大正3年) 寅年(とら年)

2月6日(金)赤口
「名古屋国技館」が開館しました。
4月7日(火)友引
熱田神宮で「日本武尊千八百年祭」が催行されました。
9月1日(火)赤口
名古屋市の上水道が給水開始されました。
9月6日(日)大安
電車賃値下げ問題市民大会で『電車焼き討ち事件』が発生しました。
11月14日(土)
「名古屋 俘虜収容所(なごや ほりょしゅうようじょ 1,914年11月14日~1,920年4月1日)」が東別院に開設され、捕虜308名(将校12名、下士官49名、兵卒246名、公務員1名)が名古屋にやってきました。
翌年の9月2日には、東区新出来町にある現在の愛知県立旭丘高校の土地に移転しました。
時期によって、収容人員の変動はありましたが、おおよその収容人員は500人前後でした。
名古屋俘虜収容所は、他の収容所で基本的に行われていなかった汽車、電車、船舶を利用して行く「郊外散歩又は、海水浴」は、「俘虜慰安事項」に含まれていたそうです。
例えば、犬山城 、岐阜金華山 、多治見虎渓山まで遠足していました。
また海水浴は、伊勢や知多半島の海岸まで出掛けたという記録も残っています。
更に、こういったドイツ兵の捕虜は、敷島パンへの製パン技術の伝達、岡本自転車、日本車両、豊田織機に技術供与をするなどと言った名古屋の企業との深い関わりや大きな貢献もありました。
捕虜解放後も日本に残る道を選んだドイツ人が名古屋収容所では、20人以上もいました。
その後、ドイツ人捕虜と名古屋市民の交流は、名古屋市長にプロシア赤十字勲章が贈られるまで繋がっていました。
現在、東区の旭丘高等学校正門左手の道路に面した所に「日独友好の碑」が建てられています。
12月
八事に「日本赤十字社愛知支部八事療養所」が開設されました。
12月31日(木)先勝
当時、名古屋市内の人口は、469,315人でした。
《その他1,914年(大正3年) 名古屋のできごと》
名古屋市内で、『タクシー業』がはじまりました。
1,915年(大正4年) 卯年(うさぎ年)
4月16日(火)大安
中区丸の内で「東照宮三百年祭(名古屋祭り)」が開催されました。
6月1日(火)仏滅
現在の名古屋市天白区(一部、昭和区に跨る)に「八事霊園」と「八事火葬場」がつくられました。
八事霊園は、大正4年から昭和30年代にかけて名古屋市が整備した霊園で、現在約5万の墓碑があります。
開園した大正4年から昭和5年頃までは、尾張電気軌道(名古屋市電の前身の一つ)が既存の路線を延ばす形で乗り入れて電車型の霊柩車が走っていました。
11月11日(木)友引
丸栄百貨店の前身である「十一屋呉服店」が、中区栄町に開店しました。
12月1日(水)仏滅
名古屋市に南区稲永新田地先公有水面埋立地(鴨浦)が編入されました。
12月31日(金)大安
当時、名古屋市内の人口は438,972人でした。
《その他1,915年(大正4年) 名古屋のできごと》
浄心から柳橋へ通じる市電が開通しました。
1,916年(大正5年)辰年(たつ年)
1月6日(木)先勝
「名古屋監獄署」(現在の千種区吹上ホール周辺)が焼失しました。
8月
南区熱田東町に電気製鋼所(現在の大同特殊鋼)が設立されました。
1,917年(大正6年)巳年(へび年)

2月
熱田兵器製造所から、愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)までの愛知郡道、「高田街道(たかだかいどう)」の整備が決定しました。
その後、高田街道沿いには「雁道商店街」ができました。
この雁道商店街は、新堀川沿岸に次々と建設された工場群とその労働者達が住む瑞穂台地上の住宅街を背景に、旗屋・高蔵・沢上などの商店が高田街道沿いに次々と店を移していった事によって、大きく発展していきました。
また、この街道の終点に愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)があった為、学生相手の商売も盛んに行われていました。
雁道商店街の最盛期は1,935年(昭和10年)頃とされ、鶴舞や笠寺からも客を集めていたと言われています。
現在瑞穂区の雁道商店街には、全部で110店ほどのお店があります。
ちなみに「雁道」という地名の由来は、雁道の周辺は鎌倉時代の頃まで伊勢湾の入江となっており、雁の飛来地であった事に由来しているらしいです。
2月20日
東区布池に名古屋市立工芸高等学校の前身である「名古屋市立 工芸学校」が開校しました。
7月3日(火)先勝
第8代名古屋市長に佐藤孝三郎氏(さとう こうざぶろう 1,868年3月2日~1,969年11月21日)が就任しました。
《その他1,917年(大正6年) 名古屋のできごと》
現在の中川区八幡町に遊廓「八幡園」が造られました。
八幡園の最盛期は、料理屋は76軒、芸妓置屋は43軒、芸妓が400人程働いていたそうです。
1,918年(大正7年)午年(うま年)
3月20日 (水)先負
名古屋市が今泉七五郎氏から動物の寄付を受けました。
4月1日(月)先負
今泉七五郎氏から寄付された動物たちによって、名古屋市立「鶴舞公園附属動物園」が開園しました。
鶴舞公園内の3,242坪(12,066㎡)が鶴舞公園附属動物園として開園しました。
開園時の動物は、獣類79頭、鰐類2頭、鳥類273羽、亀類27頭、蛇類48頭、魚類52尾で、すべて今泉七五郎氏の寄付でした。
開園当時の入場料は、大人が5銭、子供は3銭でした。
4月1日 (月)先負
「私立椙山高等女学校」が開校しました。
私立椙山高等女学校は、明治38年(1,905年)に椙山正弌(すぎやま まさかず 1,879年6月26日~1,964年2月18日)、椙山今子(すぎやま いまこ 1,877年~1,965年4月13日)夫妻が、東区富士塚町にあった士族の屋敷を校舎として改装し「名古屋裁縫女学校」を開校した事がルーツです。
6月2日(日)先負
田代に「千種西部耕地整理組合」が設立されました。
8月11日(日)大安~15日(木)先負
名古屋市内で『米騒動』が起きました。
《その他1,918年(大正7年) 名古屋のできごと》
川上 貞奴女史(かわかみさだやっこ 女優・実業家 1,871年9月2日~1,946年12月7日)が東大曽根の六郷村(現在の名古屋市北区上飯田)に「川上絹布株式会社」を設立させました。
川上絹布会社は、今までの女工の苦しい生活とは、全く違うスタイルの新しい会社でした。
女工さん達は、紺のセーラー服に靴を履き、女学生の様な格好をして作業を行い、「45分働いて、15分休む。」という現在の就労スタイルを作りました。
また、昼休みの運動には、テニスをしたりしていたそうです。
さらに、川上絹布の女工さん達は、全員寮で生活をしており、仕事が終わった夜にはお茶、お花、和裁などの習い事をし、休日には演芸会などのレクリェーションもよく行われていたそうです。
(今でいう、ホワイト企業の先駆者ですね。)
米騒動を機に「東公設市場」(東区徳川町)、「中公設市場」(中区大須)が開設されました。
佐藤孝三郎名古屋市長が「都市改良調査会」を設置しました。
同年9月11 日には、名古屋市を挙げての運動の効果が実り、東京市区改正条例の準用都市に指定されたので、直ちに市区改正の委員会予節を設けて、大正8年2月6日には内務次官を委員長、佐藤市長、宮尾 舜治氏(みやお しゅんじ 1,868年2月1日~1,937年4月3日)愛知県知事等を委員とした「名古屋市区改正委員会」が発足して『大名古屋の建設』が始まりました。
1,919年(大正8年)未年(ひつじ年)

5月5日(月)先負
日本陶器(現在のノリタケカンパニーリミテド)から、がいし製造部門を分割され「日本碍子」(現在の日本ガイシ)が設立されました。
6月
日本国内製パン業界第2位『超熟のPasco』でおなじみの「敷島製パン」が創立されました。
敷島パンの前身は、半田にあった敷島屋製粉工場で、創業者の盛田善平氏(もりた ぜんぺい 1,864年1月15日~1,937年2月24日)氏は、醸造業で有名な盛田家の分家出身です。
敷島パンは、翌年1,920年にドイツ人製パン技師であるハインリヒ・フロインドリーブ氏(1,884年~1,955年)を迎えて創業を開始しました。
7月20日(日)仏滅
中消防署、南消防署が名古屋市内で初めて設置されました。
8月8日(金)先勝
『名古屋港が重要港に指定』されました。
9月
熱田区堀川の「白鳥橋」が竣工されました。
11月1日(土)大安
名古屋市「市制施行30周年記念祝典」が名古屋国技館で開催されました。
1,920年(大正9年)申年(さる年)
1月1日(木)先負
名古屋市に都市計画法が適用される事で、「都市計画名古屋地方委員会(後の愛知地方委員会)」が設置され、1,921(大正10)年には、都市計画区域を決定する為の案が策定されて、名古屋市の他、西春日井郡の萩野村(現在の北区)、庄内町(現在の西区)、天白村(現在の天白区)、八事が区域内に指定されました。
ちなみに名古屋の新市街地は、ほとんど区画整理によって整備されました。
これは、日本の都市計画史上、例を見ない快挙だと言われています。
5月15日(月)先勝
東区太幸に「三菱内燃機製造株式会社名古屋工場(旧三菱重工業名古屋航空機製作所)」がつくられました。
7月3日(土)仏滅
ハリー・フランクリン・ホーリー領事が、名古屋市東区布池町(1,981年廃止)に「名古屋米国領事館」を開設しました。
7月11日(日)赤口 旧制
「愛知医科大学」が開校しました。
9月
石油コンロ卸売業者「林内商会」(現在のリンナイ)が設立されました。
社名となるリンナイの由来は、創設者の林兼吉氏と内藤秀次郎氏(共に生誕不詳)の頭文字を一字ずつ取ったものです。
10月1日(金)先負
第1回国勢調査行われました。
当時の名古屋市内人口は、429,997人でした。
10月17日(日)友引
「名古屋市 市営住宅」が使用開始されました。
《その他1,920年(大正9年) 名古屋のできごと》
「日本の女優第1号」の川上貞奴と「電力王」福沢桃介が、名古屋東区の東二葉町(1,980年廃止)に和洋折衷の邸宅「二葉御殿」を建てました。
当時の記録では、2000坪を超える敷地に二葉御殿が建てられており、屋敷の前には車寄せの前がロータリーあり、松の木などが植えられ、芝生の庭にはしだれ桜やもみの木、電気仕掛けの噴水やサーチライトがあり、建物内部は、最新の電気装備が施されていたそうです。
1,921年(大正10年)酉年(とり年)
1月15日(水)先勝
西区島田町(現在の中区に色2丁目)に「三菱電機株式会社」が設立されました。
2月20日(火)先勝
愛知郡笠寺村大字笠寺及び、本星崎地先公有水面埋立地を南区の区域に編入されました。
7月2日(土)先勝
第9代名古屋市長に大喜多寅之助氏(おおきた とらのすけ 1,866年12月26日~1,961年)が就任しました。
なお、大喜多寅之助氏が1,920年(大正9年)に事務所兼邸宅として建築された建物は、1,952年(昭和27年)に愛知県の所有となり、2016年(平成28年)現在愛知県議員会館として利用されています。
8月22日(月)先勝
愛知郡呼続町、愛知町、千種町、八幡村、小碓村、笠寺村、荒子村、中村、常盤村、東山村、御器所村、西春日井郡枇杷島町、清水町、杉村、六郷村、金城村が名古屋市に編入されました。
名古屋の隣接する町村の全てを編入した事によって、名古屋の市域が倍増し、当時は国内最大の市域面積、国内3位の人口を誇る都市となりました。
11月19日(土)大安
「千種 耕地整理組合」の設立が認可されました。
《その他1,921年(大正10年) 名古屋のできごと》

中区栄にあった、満つ葉という喫茶店の店主が『小倉トースト』を考案されました。
当時のハイカラブームに乗ってバタートーストをメニューに加えたところ、客であった学生達がトーストをぜんざいに浸して食べるようになり、それを見た満つ葉店主がトーストに小倉あんを乗せたバタートーストを考案した事がきっかけです。
現在では、コメダなどの全国チェーン展開をしている名古屋市発祥の飲食店でも提供されています。
名古屋市内の工業生産額が1億9,460万円余に達しました。
明治44年からの約10年の間で、実に9倍強(明治44年=2,120万円)の大幅な増加を遂げました。
なお、大正10年末の名古屋市内の建物棟数は、202,210棟で、その内訳は、住宅116,147棟、倉庫8,062棟、その他建物7万8,001棟でした。
当時市内の建物は、木造2階建が大部分を占め、石造、煉瓦造、鉄筋コンクリート造等耐火構造の建築物は極めて少数でした。
今池という地名のルーツとなった、灌漑用のため池である馬池が埋め立てられました。
馬池の由来は、当時そのため池の周りを一周する草競馬が行われており、それに伴って「馬池」と呼ばれたそうです。
その後、馬池から現在の地名である今池に転訛(てんか)したと言われています。
池下の地名の地名のルーツとなった、灌漑用の池「蝮ヶ池」(まむしがいけ)が1,921年~1,935年にかけて行われた「千種耕地整理」によって、埋め立てられました。
1,922年(大正11年)戌年(いぬ年)
1月1日
名古屋地方気象台(なごやちほうきしょうだい)で気象の観測が開始されました。

2月7日
名古屋市中区正木町で、愛知県の老舗の食品スーパー「ヤマナカ」のルーツである中野商店が食品店を創業しました。
ヤマナカは、名古屋市内に店舗が多く、名古屋全16区に出店しているほか、岐阜県や三重県にも出店しています。
最近では、高級食品スーパー「フランテ」を設立し出店するなど、地域密着型の経営を行っています。
4月1日(土)先勝
第10代名古屋市長に川崎卓吉氏(かわさき たくきち 1,871年3月8日~1,936年3月27日)が就任しました。
4月1日(土)先勝
結核患者のための「八事療養所」が開設されました。
5月1日(月)友引
名古屋市中区長岡町(現在の中区平和一、二、三丁目、金山三丁目周辺)で舟橋甚重氏(ふなはし じんじゅう)がフジパンの前身となる「金城軒」を創業させました。
舟橋甚重氏は、日本の伝統的和菓子の製造法を修行した後、洋風菓子やパン製造法を取得して創業しました。

7月7日(金)大安
「東邦ガス」が設立されました。
8月1日(火)友引
名古屋市が、名古屋電気鉄道から市内の電車を買収し、「市営交通事業」を開始させました。
9月
「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」 が建設されました。
旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎は、全国8カ所に建てられた控訴院庁舎のうち現存する最古の建物です。
現在では、『名古屋市の市政資料館』として利用されており、1,984年5月には、重要文化財にも指定されています。
10月25日(水)友引
「婦人博覧会」が開催されました。
1,923年(大正12年)亥年(いのしし年)

2月10日(土)赤口
名古屋市中区の広小路通に国内初の「街路灯」が完成しました。
3月28日(水)先勝
現在の中村区柳橋交差点で初めて『止レ、進メ』の道路標識機を立て、交通巡査が交通整理を行いました。
3月29日(木)友引
1,904年(明治37年)に名古屋市熱田区で発足した東京砲兵工廠熱田兵器製造所が「熱田兵器製造所」となりました。
(熱田兵器製造所では、主に観測車、弾薬車、山砲、航空機用機関砲などが製造されました。)
その後、昭和15年に名古屋陸軍造兵廠 (りくぐんぞうへいしょう)となり、太平洋戦争末期には、風船爆弾の気球部分も製造していました。
4月1日(日)大安
愛知県から、中村公園が無償で移管され、名古屋市「中村公園」が開園しました。
4月1日 (日)大安
大須の旭廓が移転し、「中村遊廓」が開業しました。
ただし当時の新聞記事によると、4月1日に一斉移転したのではなく、一部からのスタートでした。
中村遊廓は、日吉(ひよし)・寿町(ことぶき)・大門(おおもん)・羽衣(はごろも)・賑(にぎわい)の5つの町からなっていた為、五町街(ごちょうまち)または五丁町(ごちょうまち)と呼ばれていたそうです。
中村遊廓の最盛期であった昭和12年の「名古屋汎太平洋平和博覧会」前後は、高楼147件、娼妓(しょうぎ)1,900人を数えたと言われています。
後の太平洋戦争中は、多くが軍需工場の工員寮となりましたが、戦後は「名楽園」として復活し、その後名楽園は、昭和33年の売春禁止法施行前の昭和32年に営業を停止しました。
5月1日(火)赤口
名古屋で最初の『メーデー』が鶴舞公園で挙行されました。
5月25日(金)先勝
名古屋市で初めての『名古屋 市政懇談会』が開催されました。
11月1日(木)先勝
「名古屋図書館」が鶴舞公園内に開館しました。(後の鶴舞中央図書館です。)
《その他1,923年(大正12年) 名古屋のできごと》

熱田区で名古屋グルメの一つ「宮きしめん」が創業しました。
昭和区狭間町「中京商業学校」(現在の中京大学附属中京高等学校)が創立されました。
市電東郊線の開通によって、「雁道(がんみち)停留場」が開業しました。
1,924年(大正13年)子年(ねずみ年)
1月26日(水)仏滅
中村区松重町の堀川「岩井橋」が竣工しました。
3月14日(金)仏滅
「那古野公園」(西区)が開園しました。
4月
旭丘高校の前身の一つである「名古屋市立第三高等女学校」が開校しました。
4月1日(火)仏滅~4月5日(土)仏滅
昭和区滝川町にあった山本球場で「第一回全国中等学校選抜野球大会」(現在の選抜高等学校野球大会)が開催され、大会では地元の愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)を含め全国から8校が参戦し、香川県立高松商業学校(現在の香川県立高松商業高等学校)が初代王者に輝きました。
第2回大会以降は、春の選抜野球大会も甲子園球場での開催となったので、大会がこの球場で行われたのは、この第1回のみでした。
その後、昭和22年に国鉄(日本国有鉄道)が球場を取得し、「国鉄八事球場」に名称変更されました。
国鉄名古屋局チーム、国鉄民営化後のJR東海野球部の練習場として使用されますが、球場の老朽化が進み1,990年(平成2年)最後に球場としての役目を終え閉鎖されました。
ちなみに山本球場とは、1,922(大正11)年、当時運動具店を営んでいた山本権十郎氏(やまもと けんじゅうろう 1,858年~1,952年?)が私財を投じて造られた収容人数が2,000人という、名古屋で初めて作られた本格的な野球場です。
現在、山本球場の跡地は、マンションとなっていますが、かつてのホームベース付近に八事球場メモリアルパークがあり、『センバツ野球発祥の地』というモニュメントがあります。
9月1日(月)仏滅
現在の守山区名鉄瀬戸線小幡ヶ原駅近くに『小幡ヶ原名古屋飛行学校』が開校しました。
名古屋飛行学校の評判は大変良く、最盛期には、20機以上の訓練機が飛び回っていたそうです。
海外からの留学生や女性徒も含め多数の卒業生を送り出し、昭和14年の廃校時までには航空士218人、機関士1,165人を数えましたが、その多くは軍に入隊し、太平洋戦争で特攻隊員など多くの犠牲者を出しましたが、戦後再開された日本の空を支えた人々も多く輩出したと言われています。
現在、小幡ヶ原名古屋飛行学校の跡地は、菊華高校(1,992年、守山女子商業高等学校から校名変更)になっています。
9月2日(木)仏滅
第11代名古屋市長に田阪千助氏(たさか せんすけ 1,884年2月26日~没年不詳)が就任しました。
田阪千助氏は、名古屋市助役を経て、1,924年(大正13年)から1,927年(昭和2年)まで名古屋市長を務めました。
退職後には、東北電気株式会社取締役、東邦瓦斯証券株式会社顧問、東邦電力株式会社顧問となりました。
《その他1,924年(大正13年) 名古屋のできごと》
広小路通の歩道がコンクリートブロックで舗装されました。
1,925年(大正14年)丑年(うし年)
1月10日(土)先負
全国で三番目の放送局である「社団法人名古屋放送局」(現在のNHK名古屋放送局)が開局しました。
2月16日(月)赤口
北区光音寺町が発展するルーツと言える「光音寺 耕地整理事業」が光音寺耕地整理組合、都市計画愛知地方委員会によって行なわれました。
4月13日(月)大安
西区稲生町が発展するルーツと言える「稲生 耕地整理事業」が稲生耕地整理組合、都市計画愛知地方委員会によって発足しました。
4月19日(日)大安
名古屋市東区武平町に実業家である矢田績氏(やだ せき 1,860年9月23日~1,940年3月25日)によって、私立図書館「財団法人 名古屋公衆図書館」が開館しました。
5月1日(金)赤口
いとう呉服店が「松坂屋」と改称され、新館が開業しました。
6月1日(金)先勝
「八事 土地区画整理組合」が設立されました。
八事土地区画整理組合は、名古屋市内で初めて設立された区画整理組合で、京都の東山(南禅寺付近)の様な場所『山林都市構想』を目指した名古屋で初めての高級住宅地にふさわしい試みでした。
その後、新しい土地区画整理制度によって、音聞山、上山、…といった『名古屋東部丘岡地の土地区画整理組合』ができました。
こういった経緯で、山林都市構想に基づいた八事丘陵の高級住宅地ができあがりました。
6月17日(水)大安
現在の名古屋市中区丸の内に「名古屋放送局舎」(現在のNHK名古屋放送局)が完成しました。
7月5日(日)先勝
現在の名古屋市港区多加良浦町に「多加良海水浴遊園地」が開設されました。
現在、多加良海水浴遊園地の跡地は、公園や閑静な住宅街になっています。
7月15日(水)大安
「中村遊園地」が開園しました。
中村遊園地には、演芸場、竜宮門、水上ブランコ、ラジウム温泉や野球場があったそうです。
7月
塗料商社「松原塗料」が創業しました。
8月15日(土)先勝
愛知県下で大雨が降って、『庄内川が氾濫』しました。
9月10日(木)大安
愛知県下で暴風雨が発生し、『庄内川等が大洪水』になりました。
10月1日
国政調査で初めて名古屋市が日本国内人口第3位となりました。
市内人口増加の理由として、大正10年(1,921年)の近隣地域の大合併と大正12年(1,923年)9月1日に発生した関東大震災から逃れてきた移住者が加わった事も関係していました。
11月10日(火)友引
「市営 千種住宅」が使用開始されました。
12月15日(火)
名古屋都市計画区域内の郡部に「市街地建築物法」が適用されました。
(愛知郡下之一色町、天白村大字八事、西春日井郡西枇杷島町、庄内村、萩野村が適用)
1,926年(大正15年)寅年(とら年)
1月28日(木)友引
東山の一帯が第16号公園(面積 2,673,000㎡)として内閣の承認を得ました。 (東山公園の原案)
3月
名古屋の大幹線道路となる、東郊線(現在の国道41号線)が竣工しました。
10月1日(金)友引
中川運河の開削工事が着工されました。
なお、中川運河が開削される以前は、中川(下流域)または、笈瀬川(おいせがわ 上流域)と呼ばれる水源が西区名塚にある自然河川が流れており、生活排水が流されていたそうです。
中川運河開削の目的は、悪水排除と水運発達が目的でした。中川運河の幅員36~91mで、水深は1.2~3m程度あります。
また笈瀬川は、名古屋城築城の際には石垣に使われる石の輸送にも使われている事があった言われています。
《その他1,926年(大正15年) 名古屋のできごと》
納屋橋~旧名古屋駅前間が舗装されました。
陶磁器の加工問屋として財を為した井元為三郎氏(いもと ためさぶろう 1,874年4月11日~1,945年12月26日)が邸宅を建てました。
1,996年(平成8年)に名古屋市指定有形文化財に、2,008年(平成20年)には名古屋市の景観重要建造物にも指定されました。
現在この建物は、「文化のみち橦木館(ぶんかのみち しゅもくかん)」として保存されています。
1,927年(昭和2年)卯年(うさぎ年)
8月1日(月)仏滅
第12代名古屋市長に大岩勇夫氏(おおいわ いさお 1,867年6月24日~1,955年7月7日)が就任しました。
大岩勇夫氏は、任期途中で退陣した田阪千助市長の後を受け、市会多数派の憲政会である立憲民政党系の重鎮で、名古屋市長就任当時は、市会議長でした。
当時名古屋の目標は、国際化、東洋一で、中部の財界も国際都市建設を目指しており、大岩市長の政策も昭和不況をものともせずに「三都と並称せられる」、いわば、東京、大阪と並ぶ、名古屋を目指す政策を実行しました。
大岩市長は、3期11年にわたって名古屋市政を運営し、就任中の1,937年(昭和12年)には、『名古屋汎太平洋平和博覧会』を開催した輝かしい実績があります。
10月17日(月)赤口
現在の緑区に「鳴海球場(愛電球場)」が開場しました。
愛知電気鉄道(1,935年に名岐鉄道と合併=現在の名古屋鉄道)が沿線開発の一環として、「愛電球場」を建設しました。
建設された当初は愛電球場という名称でしたが、後に鳴海球場と改名されました。
鳴海球場は、両翼106m、中堅136mで、収容人数は、22,500人、総工費36万円でした。
2度の改修工事を経て4万人規模の球場になりました。
また当時は、東京六大学野球の聖地である明治神宮球場や高校野球の聖地である甲子園球場と名古屋の東西に大きな球場があって、それらの球場に対抗する為、鳴海球場の三塁側スタンドは、甲子園球場の「アルプス スタンド」に似た鉄傘のスタンドが設けられ、スタンドの名前は、名古屋の人々に親しまている伊吹山から名前を取って「伊吹スタンド」と名付けられていました。
その後、太平洋戦争中、鳴海球場は高射砲の弾薬置場として使われ、戦後は占領統治したアメリカ軍のレクレーション施設として使用されていましたが、プロ野球の活動が再開されると、金鯱軍と同じく名古屋を地元とする「中日ドラゴンズ」の本拠地球場となりました。
しかし、1,948年(昭和23年)に中日スタヂアム(中川区にあるナゴヤ球場)が竣工した後は、名古屋で開催されるプロ野球公式戦のほとんどは、ナゴヤ球場で行われる様になって、鳴海球場は高校野球などアマチュア主体の野球場となって、その後球場の経営不振によって鳴海球場は閉鎖され、1,959年(昭和34年)に「名鉄自動車学校」になりました。
現在でも、名鉄自動車学校の敷地には、一塁、三塁側スタンドの一部、ホームベース跡にある記念ホームプレートが残っており、鳴海球場の面影を垣間見る事ができます。
8月29日(月)仏滅
北区の城北小学校周辺が発展するきっかけとなる「城北 耕地整理事業」が1,940年にかけて北区城北耕地整理組合、都市計画愛知地方委員会によって発足されました。
中川区の新川に架かる「万場小橋」が竣工しました。
《その他1,927年(昭和2年) 名古屋のできごと》
南区本星崎地先公有水面埋立地(現在の名古屋市港区昭和町周辺)が名古屋市に編入されました。
現在の道徳公園内にある「クジラ池」のクジラ像が後藤鍬五郎氏によってつくられました。
(道徳公園が開園される前です。)
浄心から押切を経て、名古屋駅に通じる市電が開通しました。
1,928年(昭和3年)辰年(たつ年)
3月15日(木)先勝
愛知郡天白村の八事が昭和区に編入されました。
4月22日(日)大安
名古屋市で、『電話の自動交換式が開始』されました。
それまで電話は、手動交換で行っていましたが、大都市の電話利用が増大してきたので、名古屋を含めた6大都市の自動化をする事になりました。
その当時の電話加入数は、約2万1千件でした。
9月6日 (木)大安
「鶴舞公園駅」が設置されました。
鶴舞公園駅は、鉄道省中央本線の「古渡信号場(現在の金山駅)~千種駅間」に仮駅として新設開業され、御大典奉祝名古屋博覧会が鶴舞公園で開催されるのに伴って、その利便性を図る目的で設置されたと言われています。
9月15日(土)先負~11月23日(金)先負
昭和天皇の即位を記念して「御大典奉祝名古屋博覧会」が開催されました。
会期中の70日間で、194万人といった多くの人々が入場しました。
10月
御大典奉祝名古屋博覧会場の横で「大名古屋土地博覧会」が開催されました。
名古屋市区画整理耕地整理連合会と都市創作会の主催で、約90の土地区画整理・耕地整理組合、土地会社が参加したそうです。
12月1日(土)大安
名古屋博覧会の仮駅である鶴舞公園駅が廃止されました。
12月
中川区の庄内川に架っている「万場大橋」が竣工しました。
《その他1,928年(昭和3年) 名古屋のできごと》

現在の名古屋市北区福徳に愛知県下では初となる地方競馬場『川中村競馬場=名古屋競馬場』が設置されました。
川中村競馬場は、名古屋競馬協会が運営し、周囲約1,600m 幅約36mで、収容人員は桟敷に約7,000人、周囲の草地を含めると22,000人いう規模でした。
しかし、矢田川の治水工事の実施に伴って、昭和5年9月13日に廃止となってしまい、この競馬場ではたった6回しかレースが開催されませんでした。
その後、名古屋競馬場は、港区稲永に移動しました。
現在、川中村競馬場跡地の一部は、庄内川と矢田川にある、「庄内川ゴルフ倶楽部」になっています。
現在の八事裏山周辺の天白渓で「別荘の分譲開発」が始まりました。
その後、近隣に「天白渓遊園」が開園しました。天白渓遊園には、ボート池、カフェ、子供動物園、高級料亭「白水亭」、全長100メートルを超える巨大なすべり台‥があったそうです。
しかし、昭和7年7月の豪雨で、天白渓の上池と下池をつなぐ堤防が決壊してしまい、園内に合った多くの建物が流出してしまいました。
また、不況と戦争等の時勢によって再建が困難となってしまいました。
瑞穂区の山崎川に掛かる石川橋から左右田橋(そうだばし)の両岸に桜が植えられました。
1,929年(昭和4年)巳年(へび年)
3月30日(土)先負
名古屋市内で初めて鶴舞公園交差点に電気信号機が設置されました。
7月15日(月)友引
南区鳴尾町字神徳地先公有水面埋立地(現在の名古屋市港区船見町周辺)が名古屋市に編入されました。
11月1日(金)仏滅
第1回「名古屋市民美術展覧会」が開催されました。
《その他1,929年(昭和4年) 名古屋のできごと》
名古屋市で普通選挙による、初の市会議員選挙が行われました。
1,930年(昭和5年)午年(うま年)

1月1日(水)先勝
中村区の豊国神社の前に「中村の大鳥居」が建てられました。
2月1日(土)先負
「名古屋市営バス」が営業開始しました。
名古屋市営バスは、バス40輌で営業を開始し、バス路線は、浄心~覚王山、浄心~鶴舞公園、名古屋駅前~大曽根、名古屋駅前~内田橋の4系統でした。
当時、市バスには、シボレーなどが使われており、バスの運賃は6銭でした。
6月15日 (日)大安
西春日井郡庄内町大字堀越が西区に編入されました。
7月15日(火)先勝
第一回「広小路まつり」が開催されました。
10月10日(金)友引
現在の名古屋市昭和区に「名古屋市公会堂」が建てられました。
名古屋市公会堂は、昭和天皇御成婚を記念する事業として作られ、太平洋戦争中は、高射第二師団司令部として利用され、戦後はGHQに接収され、昭和31年まで連合軍兵士専用劇場として使用されました。
平成元年11月、名古屋市都市景観重要建築物に指定されました。
11月3日(木)先勝
東区の「徳川園」が公開されました。
11月7日(金)先勝
矢田川の付け替え(流路変更)工事が開始されました。
この矢田川改修事業は、総工費126万円で、昭和恐慌による失業救済事業として、地元の住民や失業者を動員して行われ、毎日約1,500人余りの人が働いていたそうで、昭和7年11月30日に完工しました。
ちなみに当時川中村では、竹が多く生えており、タケノコがよく採れ、柔らかく、味も良かったと言われています。
12月11日(木)先勝
名古屋城(名古屋離宮)が、名古屋市に下賜されました。
12月13日(土)先負
名古屋城大天守、小天守、御殿、隅櫓、正門が国宝に指定されました。
《その他1,930年(昭和5年) 名古屋のできごと》
大岩勇夫名古屋市長(昭和2~13年にかけて就任)が『中京デトロイト化構想』とも呼ばれる『中京自動車工業化構想』を提唱しました。
なお、『中京デトロイト化構想』 の発案者は、川越庸一氏(大同メタル創業者)です。
日本陸軍の演習場として使用されていた大森(現在の守山区)の八竜山一帯が60,000円で地元に払い下げられ、月見ヶ丘分分譲地として販売されました。
翠松園のすぐ東から、今の金城大学の敷地を含めて東は岬膳洞の近くまであり、分譲面積は、最低200坪から広い所になると800坪以上もあったそうです。
土地の分譲価格は、1坪あたり最低80銭、最も価格が高い場所で2円30銭だったそうです。
日本国内初の活性汚泥法による堀留処理場(中区)、熱田処理場(熱田区)が完成しました。
1,931年(昭和6年)未年(ひつじ年)
1月1日(木)大安
名古屋港東突堤端公有水面埋立地(現在の名古屋市港区潮見町)が名古屋市に編入されました。
5月1日(金)仏滅
「官立名古属医科大学」が開校しました。
7月13日(月)友引
市民病院が開設されました。
7月15日(水)赤口
愛知郡下之一色町の一部(現在の中川区下之一色町周辺)が南区に編入されました。
《その他1,931年(昭和6年) 名古屋のできごと》

ルーゲーリック氏ら、アメリカ職業野球団が来日し、鳴海球場で全日本軍と対戦しました。
南区の「道徳銀座通」が完成しました。
道徳銀座通には、カフェ、ビリヤード場、洋食堂などが並び、名古屋屈指の繁華街として南部工業地帯で働く労働者の憩いの場として賑わいました。
現在でも、道徳銀座通は地元の人々の憩いの場としての面影が残っています。
国の登録有形文化財である「加藤商会(貿易商)ビル」が名古屋市中区錦一丁目に建設されました。
現在の加藤商会ビルには、レストランや堀川ギャラリーがあり、大正から昭和初期の近代建築の特徴が色濃く残されています。
1,932年(昭和7年)申年(さる年)
1月
現在の昭和区五軒家町に「南山中学校(旧制)」、現在の「南山高等、中学校」が開校しましたた。
4月29日(金)友引
鶴舞公園の運動場が完成しました。
9月
御器所尋常高等小学校、旗屋尋常小学校で、名古屋市内初の学校給食が開始されました。
9月5日(月)赤口
「全国発明博覧会」が開催されました。
12月20日(火)先負
「中川運河」が全通しました。
中川運河は、名古屋港の開港によって、物資の流通量が増え、堀川と新堀川だけでは応じきれなくなったので、建設された運河で、掘った土で周辺を工場地域として開発するという画期的なものでした。
なお、中川運河の前身は、笈瀬川(上流から中流域)、中川(港区熱田新田東組周辺)という自然河川でした。
運用開始時には『東洋一の大運河』、『東洋のパナマ運河』として、名古屋名物の1つとなったと言われています。
12月20日(火)先負
中川運河の松重閘門(まつしげこうもん)が造られ、運用開始されました。
尖塔は1,968年(昭和43年)閘門の使用停止後には取り壊される予定でしたが、保存を求める住民運動などもあって保存される事となりました。現在では松重閘門は日本の土木遺産となっています。
12月
西春日井郡萩野村、大字辻村が名古展市内に編入されました。
《その他1,932年(昭和7年) 名古屋のできごと》

純国産乗用車「アツタ号」が岡本自転車自動車製作所、日本車輌製造、大隈鉄工所(現在のオークマ)、愛知時計電機、豊田式織機によってつくられました。
西区円頓寺に絶品のタマゴサンドで有名な喫茶店「西アサヒ」が創業しました。
なお、西アサヒは2,018年4月1日(日)から『喫茶、食堂、民宿。なごのや』と屋号を変更し、新たにスタートしました。
名古屋市南区にあった行楽施設「道徳観音山(コンクリートでつくられた観音像と観音山)」が造られました。
観音像の作成は、後藤鍬五郎氏が担当し、メタリコン塗装は石原常忠氏が担当したそうです。
観音山は、展望台にもなっており、伊勢湾を展望する事ができた為、春や秋は子供達の遠足で賑わい、また夜になると地元のカップルが集まるデートコースだったそうです。
また、観音山には高さ10mの滝があって、その下には子供達が遊べるプールが設置されていました。
更に観音山の中は、名古屋初の屋内型スケートリンクになっていたそうです。
(当初ダンスホールが造られる予定でしたが、スケート場に変更されたそうです。)
( なんか、楽しそうな施設だなぁ。‥‥)
その後、昭和39年に観音と観音山は取り壊され、跡地は住宅地などとして売却されました。
( 行ってみたかったなぁ。‥‥)
ちなみに現在の観音町という町名は、道徳観音が由来だそうです。
1,933年(昭和8年)酉年(とり年)

4月26日(水)大安
鶴舞公園のテニスコートが開設されました。
5月5日(金)友引
瞬間接着剤アロンアルファなどで有名な東亜合成化学工業の前身である「矢作工業」が設立されました。
7月1日(土)先勝
千種区振甫町にあった江戸末期に作られた「振甫池」に初の名古屋市市営プール「振甫プール」がオープンしました。
オープン当時は飛込プール、50mプール、25mプール、観覧席、ナイター設備などが設けられていたそうです。
なお、振甫プールは2,009年に閉鎖しました。
現在振甫プールの跡地には、かつて「振甫プール」で活躍した「フジヤマのトビウオ」呼ばれた水泳選手、古橋廣之進氏(ふるはし ひろのしん 1,928年9月16日~2,009年8月2日)による「泳心一路」の碑が立てられています。
9月3日(日)友引
前畑秀子さん(まえはた ひでこ 1,914年5月20日~1,995年2月24日)が千種区振甫プールで女子200m平泳ぎ世界新記録を樹立しました。
9月6日 (水)大安
「名古屋市役所」新庁舎が竣工されました。
名古屋市役所の本庁舎は、昭和天皇即位の記念事業として建設されたもので、コンペによって選ばれた平林金吾氏の設計を基にした、近代的なビルに名古屋城天守を模した瓦葺屋根の塔を組み込んだ「帝冠様式」の建築物です。
なお、平林金吾氏(ひらばやし きんご 1,894年11月27日~1,981年12月29日)が設計した建築物には、大阪府庁舎、朝鮮貯蓄銀行などがあります。
10月1日(日)先勝~10月3日(火)先負
「大名古屋祭」が開催されました。
《その他1,933年(昭和8年) 名古屋のできごと》

現在の名古屋市北区城北、杉村町方面の住居地域及び、市外であった庄内町、萩野村の住居地域の指定予定地を工業地域に変更する案が提出されました。
当時の名古屋市内の工業出荷額の約5割強を占めていた紡織工業は、紡績に使用する水質と水量が豊富な城北、杉村町あたりが紡織工業の発展に好位置であった為です。
中京商業学校が夏の甲子園全国大会1,931年から33年にかけて、エース吉田正男投手(よしだ まさお 1,914年4月14日~1,996年5月23日)を擁立したチームで、大会3連覇を果たしました。
(現在でも、夏の3連覇を達成した高校は他にありません。)
「八事聖霊修道院」が設立されました。
1,934年(昭和9年)戌年(いぬ年)
9月6日(木)仏滅
名古屋市内の新国道が竣工しました。(現在の国道1号線です。)
《その他1,934年(昭和9年) 名古屋のできごと》

名古屋市内の人口が100万人を突破しました。
名古屋港第10号地(現在の港区稲永)に仮飛行場が設置されました。
べーブルース選手ら、アメリカ職業野球団が来日し、鳴海球場で全日本軍と対戦しました。
一色大橋(現在の中川区)が竣工しました。
名古屋自動車製作所が電気自動車「ナゴヤ号」を開発、発売しました。
ナゴヤ号の最高速度は35km/hで、一回の充電による走行距離は75~80kmでした。(すごいです!!)
昭和初期にも、現在と同じように燃料不足などの理由から電気自動車が必要であるという考えがあったようです。
1,935年(昭和10年)亥年(いのしし年)
2月1日(金)先負
北区で「志賀公園」が開園しました。
4月3日(水)先負
「東山公園」が開園しました。(敷地面積 808,249 ㎡)
8月4日(日)赤口
『第1回 市民ラジオ体操大会』が開催されました。
9月
第3師団留守部隊、愛知県及び名古屋市の共同主催で『名古屋防空大演習』が実施されました。
10月
愛知トヨタの前身である「日の出モータース」が創業しました。
当時、日の出モータースの山口昇(後の愛知トヨタ会長)支配人は、「必ず故障する」事を前提にした誠実な自動車販売を行っていたそうです。
10月1日(火)赤口
国勢調査で初めて市内の人口が100万人(人口108万2,816人)を突破しました。
11月10日(日)赤口
東区徳川町に「徳川美術館」が開館しました。
徳川美術館には、尾張徳川家に伝わる絵画、刀剣、茶道具、工芸品等の貴重な大名道具を展示しており、国宝の「源氏物語絵巻」もあり、大名家伝来の美術館としては、国内最大規模の美術館です。
なお、徳川美術館本館と南収蔵庫の建物は、吉本与志雄(生誕不詳)の設計による帝冠様式(和風の屋根や外観をもった洋式建築)のデザインの建物で、造形の規範となっており、美術館自体が1,997年6月12日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
敷地内には、閑静な日本庭園も併設されています。
11月25日(月)先負
朝日新聞と毎日新聞が名古屋で朝、夕刊の印刷発行が開始されました。
《その他1,935年(昭和10年) 名古屋のできごと》

名古屋鉄道(名鉄)が設立されました。
昭和10年当時、名古屋市中区、西区、東区の旧城下の商店街をはじめとし、市内に77の商店街があったそうです。
1,936年(昭和11年)子年(ねずみ年)
1月15日(水)友引
名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)が設立されました。(名古屋軍の親会社は、新愛知新聞です。)
2月9日(日)大安
日本初のプロ野球試合が鳴海球場で名古屋金鯱軍、東京巨人軍戦が行われました。同試合で、プロ野球試合の全国初生ラジオ中継が行われました。
初戦は、10-3で勝ちましたが、残りの二戦は8-3、4-2と巨人軍に負けてしまいました。
2月28日(金)先勝
名古屋野球倶楽部、職業野球団「名古屋金鯱軍」が設立されました。
実際は、2月28日以前の段階で球団は出来上がっていたので、2月9日~11日の「巨人軍渡米送別試合兼金鯱軍結成記念試合」が行われました。
(名古屋金鯱軍の親会社は、名古屋新聞で戦後復活した中日ドラゴンズとは、無関係です。)
5月18日(月)赤口
「道徳観音像の開眼式」が行われました。
道徳観音像の開眼式は、京都清水寺の大僧正大西良慶師を招いて行われ、稚児行列、餅投げ、花火なども盛大に行われ、大変賑わったそうです。
9月16日(水)赤口
名古屋港中央ふ頭の埋立が竣工しました。
11月17日(火)先勝
「愛知観光協会」が設立されました。
12月16日(水)先勝
「名古屋観光ホテル」が開業しました。
名古屋観光ホテルは、名古屋ロータリー倶楽部会長であった伊藤次郎左衛門氏(1,878年~1,940年)の「名古屋にも国際級のホテルを作るべきだ」との提唱で、名古屋商工会議所などが中心となってつくられた、皇族等の宿泊先にも選ばれる名古屋では屈指の名門ホテルです。
《その他1,936年(昭和11年) 名古屋のできごと》
後の『現代パチンコの生みの親』、正村竹一氏が名古屋市西区弁天通りにパチンコ店「スピード野球ボール」のお店を開店させました。
東区白壁の金城学園にある教会風の建物「金城学院榮光館」が建設されました。
ちなみに平成21年くらいに行われた金城学院榮光館の外壁塗替え工事では、小林ゆずも塗装しました。
塗料は確か「セラビューレ」と「1液ワイドウレタン」などを使用しました。
1,937年(昭和12年)丑年(うし年)

1月4日(月)友引
『昭和の金助事件』が発生しました。
昭和の金助事件とは、名古屋城天守閣の金の鯱の鱗58枚を佐々木賢一が盗んだ事件の事です。
鱗に使われた金の価格は、当時の価格で40万円ほどでした。
2月1日(月)先勝
国鉄「名古屋駅」が完成しました。
名古屋駅は、地上6階地下1階の駅舎で、当時東洋一の規模を誇る大きな駅でした。
2月3日(水)先負
『国鉄名古屋駅の竣工式』の竣工式が駅内コンコースで行われました。
竣工式典は、愛知県知事、名古屋市長ほか鉄道関係者など約4,000名が参加し、松坂屋ブラスバンドの演奏と共に盛大に行われたそうです。
2月27日(土)大安
名古屋市中心部の『桜通りが開通』しました。
3月1日(月)先勝
庄内公園(西区)と松蔭公園(中川区)が開園しました。
同日『名古屋市内の民営電車買収』が完了しました。
3月3日(水)先負
「東山植物園」が開園しました。
開園当初の敷地面積は、244,000㎡、入園料は大人10銭、小人5銭でした。
東山植物園の開園当初は『東洋一の植物園』と呼ばれていました。
3月15日(月)仏滅
「名古屋汎太平洋平和博覧会」が南区(現在の港区港明の辺り)で開催されました。
名古屋汎太平洋平和博覧会の敷地は約15万坪で、この広大な敷地は博覧会開催の為に熱田前新田の沼地を埋め立てて造られました。
博覧会の会場には、高さ45mの平和塔や46の展示館が建設され、その中には、当時としては大変珍しいドイツ製の透明人間(人間の倍ほどの人体模型)も展示されました。
同博覧会には、海外29か国が参加し、会期中の人場者は約480万人を記録し、戦前に開催された博覧会としては国内最大規横の博覧会となりました。
その後、会場の跡地を工業地域に指定し、工場誘致を推進した事もあって、港区や南区の一帯が重化学工業化していく契機となりました。
現在、博覧会の唯一の遺構として平和橋が残っています。
3月24日(水)先勝
「東山動物園」が開園しました。
開園当初の敷地面積は、166,320㎡、観覧料は大人15銭、小人5銭でした。
東山動物園は、ドイツのハーゲンベック動物園にならって、動物を檻に入れず、堀によって動物と観客側を隔てる無柵式放養形式』を日本で最初に取り入れた動物園でした。

4月
中村区に「日本赤十字社愛知支部名古屋病院」が開設されました。
なお、日本赤十字社愛知支部名古屋病院は、昭和29年に名古屋第一赤十字病院に改称されました。
4月21(水)先勝
国鉄中央本線「鶴舞駅」が開業しました。
鶴舞駅は、1,935年(昭和10年)から鶴舞公園内の商店主や地元住民などで構成される鶴園振興会が名古屋市や国に陳情を繰り返した結果、地元の土地所有者が駅に使われる用地約800㎡を寄付し、工事費のうち約2万3000円を負担し、道路を新設する事を条件に建設される事になったものと言われています。
名古屋市立名古屋動物園が鶴舞公園から東山に移転する事によって、地元衰退の危機を乗り越える為、地元住民達が陳情したとされています。
5月5日(水)先負
ヘレンケラー(1,880年6月27日~1,968年6月1日)女史が名古屋にやってきました。
5月31日(月)先勝
中村区「稲葉地の配水塔」が完成しました。
8月1日(日)赤口
中川運河で「大名古屋運河祭が」開催されました。
大名古屋運河祭では、児童剣道大会・ボートレース・児童相撲大会が行われ、大変盛り上がったそうです。
8月27日 (金)仏滅
「トヨタ自動車工業(株)」が設立されました。
10月1日(金)仏滅
中区の旧御器所村と、南区の旧弥富村と旧瑞穂村と旧八事村の一部が合併し、昭和区が新設されました。
なお、「大名古屋祭式典」が開催されました。
11月1日(月)先勝
千種・東・西・中村・中・昭和・熱田・中川・港・南の10区制が開始されました。
《その他1,937年(昭和12年) 名古屋のできごと》

『桜通のイチョウ並木が植樹』されました。
イチョウ並木は、汎太平洋博覧会を記念して道路整備された際に植えられました。
現在では、120本の巨木に成長しており、ボリュームのある並木が形成されています。
名古屋市中村区の名古屋駅構内に早川浴場(はやかわよくじょう)銭湯が開業しました。
早川浴場の最盛期だった昭和30年代には、早朝5時から深夜23時まで営業し、1日1,000人を超すお客さんで賑わった時期もあったそうです。
全国で唯一駅構内にある銭湯として親しまれていましたが、1,991年11月30日で閉店しました。
西区浄心に『辨天劇場(弁天劇場)』が開館しました。現在では葬儀場「ティア浄心」になっています。
1,938(昭和13年) 寅年(とら年)

3月23日(水)大安
中区丸の内に「愛知県庁舎」が完成しました。
愛知県庁舎は、鉄骨鉄筋コンクリート造、地上6階、地下1階、塔屋1階の建物で、平面形状は日の字型で、建築面積4,665.99㎡、延床面積28,314.48㎡、高さ39.79m、頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式の意匠が特徴的な建物です。
愛知県庁舎の建築費は300万円(当時)だったそうです。
5月16日(月)友引
昭和、中川、港区役所が完成しました。
6月1日(水)友引
関西急行電鉄(株)(現近畿日本鉄道(株))、名古屋地下駅(関急名古屋)駅が竣工しました。
6月28日(土)赤口
「関西急行電鉄」(現在の近鉄)が名古屋駅に乗り入れされました。
近鉄名古屋駅は、乗り入れ当初から地下駅で「関急名古屋」駅と呼ばれていました。
7月1日(金)先負
東区大幸町に「三菱重工業名古屋発動機製作所」ができました。
《その他1,938年(昭和13年) 名古屋のできごと》
東山動物園の開園1周年を記念して、鉄筋コンクリート造で恐竜(プロントサウルス像、イグアノドン像、トリケラトプス像)が作られました。
なおこの恐竜は、東山動物園の建設が、ドイツのハンブルグ郊外にあるハーゲンベック動物園の経営者からの助言を受け建設されました。
2,017年4月には、補修工事を終え、恐竜たちの周りも、きれいな広場に生まれ変わって、リニューアルオープンしました。
現在の名古屋市北区川中町、安井2丁目に「臨時名古屋陸軍病院(収容人数1,400人)」が建設されました。
この病院は、昭和20年5月14日の空襲によって焼失してしまいました。
1,939年(昭和14年)卯年(うさぎ年)
1月10日(火)赤口
第13代名古屋市長に縣忍氏(あがた しのぶ 1,881年6月30日~1,942年1月6日)が就任しました。
3月22日(水)先負
名古屋市電の急行運転が開始されました。
3月31日(金)赤口
堀川改修工事が竣工されました。
4月1日(土)先勝
名古屋大学の前身である「名古屋帝国大学」が創設されました。
日本有数の大都市となった名古屋市に総合大学を設置する事を、地元名古屋の人々が長年にわたって熱望しており、一貫して総合大学設置の必要性を政府に訴え続け、実現されました。
5月20日(土)大安
中区広小路に丸栄百貨店の前身である、「三ツ星百貨店」が開業しました。
6月30日(金)赤口
『名古屋港中央ふ頭の灯台が完成』しました。
10月1日(日)友引
「名古屋市制施行50周年記念式典」が行われました。
1,940年(昭和15年) 辰年(たつ年)
3月7日(木)大安
熱田神宮の「新神楽殿」が竣工されました。
12月7日(土)先勝
名古屋市の防空施設として環状緑地帯を造成し、また平時には市民の健康休養体位向上を図るために名古屋市を取り巻く拠点ごとに5緑地7箇所(公園から種別を変えて決定された2カ所を含む)が決定されました。
12月
相生山緑地が防空法と連動し、防空緑地として都市計画に設定されました。
戦前のこの時期には、名古屋市内にある他の公園・緑地についても防空緑地公園事業が進められ、さらに密集地帯の一般木造家屋と病院、工場、学校などの大規模木造建築物を対象として、外壁にモルタルを塗ったり、防火壁を設けるといった建築物の延焼を防ぐ対策がとられました。
《その他1,940年(昭和15年) 名古屋のできごと》
名古屋市西区の庄内橋が架けられました。
ちなみに、現在の庄内橋は昭和46年に架け替えられたものです。
1,941年(昭和16年)巳年(へび年)
4月1日(火)先勝
「松葉公園」(中川区)、「八熊公園」(中川区)、「児玉公園」(西区)、「道徳公園」(南区)、「大幸公園」(東区)、「上名古屋公園」(西区)が開園しました。
(これらの公園は、皇太子殿下=平成天皇の御降誕記念事業公園です。)
6月3日(火)先勝
港区昭和町に「名古屋造船」 (現在の石川島播磨重工業 愛知工場)が設立されました。
7月14日(日)大安
「市立城北病院」が開設されました。
8月12日(火)先勝
名古屋鉄道の「新名古屋駅」(現在の名鉄名古屋駅)が開業しました。
名鉄最大のターミナル駅で、現在では一日800本以上の列車が発着しています。
なお、駅の開業以来、新名古屋駅という駅名でしたが、中部国際空港開港を目前にした2,005年1月29日、国内外からの乗客に「名鉄の名古屋駅」である事を分りやすくする為、「名鉄名古屋駅」に改称されました。
10月1日(水)赤口
名古屋港第11号地に「名古屋飛行場」が設置されました。
初めは、公共用の飛行場として使用されていましたが、太平洋戦争の激化によって、大日本航空株式会社は撤退、終戦まで軍用機メーカーの試験飛行場や空輸基地として使われる事になりました。
11月10日(月)赤口
「紀元2,600年祝典」が市内各官庁で挙行されました。
12月1日(月)仏滅
「瑞穂公園」(瑞穂区)が開園しました。
瑞穂公園の敷地の大部分は、瑞穂耕地整理組合、弥富土地区画整理組合及び、弥富南部土地区画整理組合から寄付され、つくられました。
1,942年(昭和17年) 午年(うま年)

2月21日(水)友引
第14代名古屋市長に佐藤正俊氏(さとう まさとし 1,886年9月18日~1,962年5月3日)が就任しました。
3月15日(日)大安~31日(火)仏滅
東山動物園で「大東亜動物展示会」が開催されました。
4月18日(土)友引
米軍B-25爆撃機2機によって、名古屋市が初めて空襲を受けました。
名古屋市内6箇所で焼夷弾被害があり、死者8人、負傷者31人の被害を受けました。
この空襲の主な目的は、アメリカ国民の士気高揚であったとされています。
8月1日(土)先勝
熱田神宮公園のプールが開場しました。
10月
名古屋市西区に「床用ウレタンニス フロアーユートン」で有名な木部用塗料メーカー「玄々化学工業株式会社」が設立されました。
1,943年(昭和18年) 未年(ひつじ年)
1月17日(日)大安
名古屋市電の特急運転が開始されました。
1月21日(木)先負
「子供の科学展」が開催されました。
4月1日(木)仏滅
名古屋市電、市バスの女性車掌である600人の服装をモンペ姿に統一されました。
4月1日(木)仏滅
港区の「小碓公園」が開園しました。 (皇太子殿下=平成天皇 御降誕記念事業公園)
5月10日(月)仏滅
『名古屋市営トロリーバス 東大曽根町~桜山町間が開業』しました。
5月18日(火)赤口
産業道路が竣工しました。 (名古屋~一宮間)
5月20日(金)先負
名古屋城正面広場に4か所、外苑2か所に防空壕が設置されました。
6月1日(火)友引
国鉄(現在のJR東海道線)の笠寺駅が開業しました。
8月12日(木)赤口
名古屋市内のバスを藤鼠色(ふじねずいろ)、藍鼠色(あいねずいろ)、国防色(こくぼうしょく)の3色のうち、いずれかに塗り替えする様に通達を受けました。
8月27日(金)先負
老舗十一屋呉服店と三星百貨店が対等合併して、「丸栄百貨店」が誕生しました。
百貨店の名前である丸栄には、『栄の地で丸く栄える』という意味が込められているそうです。
11月1日(月)先勝
西区に東京芝浦電気(現在の東芝)名古屋工場が設立されました。
1,944年(昭和19年)申年(さる年)
1月
建物疎開第一期計画第一次指定として名古屋市内約95,200坪の疎開空地と、約96,300坪の疎開空地帯(4路線)を指定、その後、第四期計画まで指定が行われ、合計で110万坪余が指定され、建物疎開が実施されました。
2月11日(金)大安
北区、栄区、瑞穂区の3区を増設し、名古屋市の『13区制』が開始されました。
なお、栄区は行政区と警察管区の合致によって、市民生活の秩序・治安の安定を図り、より強固な防衛体制を作ろうとした目的で設けられた区でした。
3月31日(金)仏滅
『教育ニ関スル戦時非常措置方策』によって、名古屋市立工芸学校が「名古屋市立第二工業学校」に改称されました。
その際に西区児玉町(旧・名古屋市立第二商業学校(現在の名古屋市立西陵高等学校)校地)に建築科、土木科、造船科の3学科がつくられました。
5月
名古屋市内1,355カ所の貯水槽の設置が決定され、同時に事業に着手されました。
8月5日(土)仏滅
名古屋市の『学童集団疎開』が開始されました。
学童集団疎開の内訳は、縁故による疎開児童は46,700人、学校の集団疎開児童は、109校32,157人と記録されています。
12月7日(木)先勝
午後1時36分、『東南海地震』が発生しました。
当時、日本は太平洋戦争の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が日本の国民や敵国アメリカに漏れる事を恐れた軍部は情報を統制し、被災地は地域からの救援活動もなく、孤立無援となってしまいました。
この地震によって、名古屋市南区の三菱重工の道徳飛行機工場は倒壊し、死者60人の被害を出しました。
12月
名古屋市内に、横穴式延長350mの防空壕と130ヶ所の掩蓋式防空壕(えんがいしきぼうくうごう=1.5m程度の穴を掘り、丸太、角材などを渡し、板などを敷き、掘り出した土を30~60cmの厚さに積んだ簡便な防空壕)の設置が決定され、同時に事業に着手されました。
12月13日(水)先勝
アメリカ軍が「三菱重工大幸工場」、「三菱重工大江工場」など軍用機工場への空襲を始めました。
特に東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機は、全国発動機生産高の40%以上を生産していましたが、昭和19年12月13日から20年4月7日までに、合計7回の目標爆撃を受けて壊滅してしまいました。
アメリカ軍の資料によると、それらの爆撃によって、全屋根面積の94%に破壊又は損傷を与えたとされています。
12月13日(水)先勝
治安維持の為、東山動物園の猛獣ライオン2頭、ヒョウ2頭、トラ1頭、月の輪クマ2頭が、警備を担当していた猟友会によって、射殺されました。
1,945年(昭和20年)酉年(とり年)

1月13日(土)仏滅
太平洋戦争による影響で東山動物園の一般観覧が停止しました。
2月16日(金)仏滅
軍が使用するため、東山動物園と動植物園が閉園されました。
2月25日(日)先勝
空襲によって、東山動物園施設の一部に被害を受けました。
3月12日 (月)仏滅
アメリカ軍の焼夷弾で、名鉄名古屋駅の駅舎が被災しました。
3月19日(月)先勝
午前2時、アメリカ軍がB-29爆撃機230機による名古屋の『夜間市街地空襲』を行いました。
この空襲で、市内の39,893戸に被害があり、死者は826名、負傷者2,728名、罹災者142,887名に達しました。
またその際に名古屋図書館が焼失してしまいました。
3月25日 (日)先勝
東山植物園の温室が空襲によって大きな被害を受けました。
4月7日(金)大安
アメリカ軍が行った大曽根駅東にある三菱発動機‥への空襲によって、大曽根駅が全壊してしまいました。
この空襲によって、大曽根駅員の37名中30名が殉職しました。
なお、爆撃直前にいた列車の乗客100人は、爆撃を避けるため駅員が列車を勝川に向けて出発させた為、全員無事でした。
5月14日(月)赤口
アメリカ軍がB-29爆撃機440機による名古屋市北部空襲で、焼夷弾約2,515tが投下され、名古屋城が消失してしまいました。
同空襲で、社団法人日本放送協会名古屋支部(現在のNHK名古屋放送局)の局舎も消失してしまいました。
なお、名古屋城は、空襲の標的にはされていなかったので、空襲の巻き添えとなったと考えられています。
5月17日(木)先負
「熱田神宮本殿」、「熱田駅舎」が空襲によって焼失してしまいました。
6月9日(土)友引
午前9時17分~9時25分にかけて、アメリカ軍が『熱田空襲』を行いました。
熱田空襲よって、熱田区の「愛知時計電機船方工場」、「愛知航空機船方工場」周辺に空襲を受けました。
この際、空襲警報の解除ミスによって、死者2,068名、負傷者1,944名にのぼり、人的被害において、名古屋空襲で最大の被害を出しました。
当時名古屋市内は、三菱重工業名古屋発動機、三菱重工業名古屋航空機、愛知航空機、愛知時計電機、陸軍造兵廠、住友金属工業、大同製鋼、神戸製鋼、日本車輌製造、名古屋造船、岡本工業、大隈鉄工・・・・、日本の軍需産業を支える多くの工場が立地していたので、空襲目標になりました。
6月16日(土)大安
鈴木貫太郎首相が伊勢神宮参拝の帰途、名古屋の戦災地視察を行いました。(参拝の帰途ですが・・・・。)
6月26日(火)先負
アメリカ軍が港区の稲永周辺に空襲を行いました。
7月
守山吉根地区(現在の緑ヶ丘カンツリークラブ北東斜面)に第9地下施設隊等によって、地下壕が掘られました。
付近の民家に泊まり込み、昼夜を問わず隊員による三交代で掘削されました。
地下壕の完成後は、東海軍管区司令部と愛知県庁が入る予定でしたが、完成する前に終戦を迎えました。
なお終戦直後に公文書、設計図、名簿など書類等は秘密保持のため削除、焼却され、入り口も塞がれてしまい地下壕の全容は分かっていません。
7月24日(火)先負
アメリカ軍が港区の稲永周辺に空襲を行いました。
この空襲で死者167名、負傷者208名の被害が発生しました。
8月15日(水)友引
「玉音放送」が名古屋市内で放送されました。
太平洋戦争によって、名古屋市は全市域約16,000haのうち、約3,850haが焼失しました。
空襲による罹災戸数は、全焼113,604戸を含む計135,203戸、死者7,802人、負傷者9,911人という甚大な被災状況でした。
B-29による来襲は延べ2,579機に達し、投下した爆弾や焼夷弾は、判明した分だけで14,500tを超えています。
9月
日本舞踊における五大流派の一つ、西川流家元である西川鯉三郎(2世)(1,909年12月27日~1,983年7月31日)が『名古屋をどり』の旗揚げ舞踊公演を名宝会館(1,935年11月3日~2,002年12月1日)で始めました。
当時、名古屋をどりで使われた「白鳥は来たりぬ」の奇抜な衣装や装置を巡り、「芸術か舞踊か」の大論争になったそうです。
9月
中村遊郭の組合が「旭廓貸座敷組合」を「名楽園組合」に改称しました。
この頃、東海地方では、名楽園以外にも同様な特殊カフェー組合が組織され、城東園、八幡園、港陽園などの「~園」という名称が流行しました。
9月21日(金)大安
名古屋市が学童疎開による帰校を指令しました。
9月29日(土)先勝
戦後最初の名古屋市臨時市会が招集され、この市会の冒頭において、「名古屋市再建に関する決議案」が満場一致をもって決議されました。
翌10月には、復興を担当する技官に土木工学者である田淵寿郎氏(たぶち じゅろう 大正、昭和期の日本の土木工学者であり都市計画推進者 1,890年3月3日~1,974年7月10日)が就任しました。その後、田淵技監は、2本の100m道路の配置や墓地の郊外への集団移転など、当時としては想像を超えた大胆かつ雄大な計画を打ち出しました。
9月30日(日)友引
米軍の先遣隊が名古屋市内に進駐開始しました。
11月3日(土)先勝
前年の設置された栄区が廃止され、中区に併合される事で、名古屋市の『12区制』が開始されました。
また、前年の昭和19年に中区と栄区合わせて約195,000人を数えた人口は、応召・戦災死亡・疎開によって激減し、昭和20年(1,945年)には、人口が35,000人にも満たなくなってしまい、栄区と中区は共に独立して行政区を保つ事ができなくなってしまったので、再び一つの中区になりました。
11月
株式会社オリエンタルの創業者である星野益一郎氏が中村区椿町で「オリエンタル 即席カレー」、「オリエンタル 即席ハヤシドビー」の製造・発売開始させました。
12月6日(木)赤口
名古屋の戦災復興として、『大中京再建の構想』を新聞紙上で発表しました。
この「大中京再建の構想」は30項目あり、「主要な幹線道路は50m以上する」、「道路の付属物は地下に埋設させる」、「東西南北2本の地下鉄を設置する」、「国鉄と私鉄は地下鉄か高架にする」、「小学校に隣接する、同規模の公園を設ける」、「焼け跡の墓地は、一定区へ移転整理する」など言った内容が記されていたそうです。
12月19日(水)先勝
名古屋市内で、『観測史上最高の49㎝の積雪』を記録しました。
《その他1,945年(昭和20年) 名古屋のできごと》
敗戦直後の名古屋市内の街頭には「浮浪児」が溢れ、名古屋駅周辺だけでも100人を数える事もあったそうです。
この様な子供達は、戦争による孤児をはじめ、戦災で家を失ったり貧困の為に家出した子供達で、遺棄された子も多かったそうです。
更に、罹災者、復員兵、引揚者の中で住む家が無い「浮浪者」も名古屋駅及び、その周辺に寝場所を求めて集まってきました。
寝場所を求めてくる人々の数は日ごとに増加し、11月のはじめには名古屋駅内だけでも、一日319人にも達しました。
こうした人々は、駅の待合室やコンコースなどに住み付き、昼間は職を求め、くず拾い等に出掛けたり、闇商人に使われたり、旅行者に物乞いしたりして命を繋ぐ人も多くいました。
また、夜になると売春婦が現れる・‥、名古屋駅の構内は犯罪の温床になる事もしばしばあったそうです。
20年末 名古屋市内の焼け跡には、露店やバラック小屋の闇市が続々とでき、その中でも『駅裏』と呼ばれた国鉄名古屋駅西側の一帯には、最盛期には600軒余のバラック小屋が建ち、1日30万人の人々が訪れました。
駅裏の闇市には、「かつぎ屋」、「闇屋」、「ブローカー」と呼ばれる闇商人によって、軍需用アルミニウムで作られた鍋や釜、GHQからの横流し製品や食べ物など各種の商品が運び込まれ、台やふろしきに押し並べられ、販売されていました。
闇市は、市民と生産地を結ぶパイプでもありました。
しかし、闇市で売られている物の値段は、公定価格の5倍から10倍だったそうです。
(卵1個15円、マッチ大箱50円、石鹸1個50円程度)
また、闇市は窃盗や野荒らしなどで得た物品の換金場所でもあり、「ショバ代(場所代=みかじめ料)」をとおして暴力団の資金源になる事もありました。
なお、名古屋市内は敗戦による混乱が原因して、犯罪が多発し、昭和20年の18,363件から、翌21年には47,007件に急増、23年には53,054件と更に上昇しました。なお、昭和23年以後は、徐々に犯罪の発生件数が減少していきます。
罪種としては、凶悪犯罪が目立つと共に、窃盗、詐欺、横領等が戦前に比べ、大幅に増加しました。
また、戦前は前科者による犯罪が多かったそうですが、戦後は道徳意識の欠如した青少年が犯罪に加わった事や物不足を反映して、倉庫が破られ衣類や米などの盗難の増加した事が特色でした。
守山区東谷山の開墾が開始されました。
戦後初の全国規模の人口調査が行われました。当時の名古屋市内の人口は、597,941人でした。
1,946年(昭和21年)戌年(いぬ年)
3月14日(木)赤口
『名古屋市復興計画の基本』が発表されました。
「名古屋市復興計画」は、終戦直後から構想を練り、この日定例予算市議会において発表されました。
この計画では、市域内では人口200万人まで機能的な都市活動が可能となる様、公共諸施設を設定する事として、用途地域等の土地利用計画の再検討、小公園と小学校の併設、公園の整備拡大、盛り場計画や墓地移転、幹線道路の拡張新設、鉄道立体化、運河整備、近隣住区の設定など復興の基本的な考え方を示しました。
その後、名古屋は約2年で復興計画を大きく進めました。(すごいです。)
3月17日(日)先負
千種区の『名古屋市東山動物園と植物園が再開』されました。
3月17日(日)先負
戦災による罹災者用の『名古屋市営の簡易住宅が700戸完成』しました。
5月21日(火)赤口
「名古屋タイムズ」が創刊しました。
名古屋タイムズは、通称「名タイ(めいたい)」呼ばれていた名古屋市を中心にした地元密着の新聞で、愛知県と岐阜県、三重県(伊賀・東紀州地区は除く)、静岡県西部(大井川以西)と滋賀県東部(米原市など)で販売されていましたが、2,008年10月31日に休刊しました。
6月27日(木)友引
名古屋の『復興関連の都市計画』が決定しました。
9月3日(火)先負
名古屋港が、国際港に指定されました。
10月1日(火)先負
「名古屋復興祭」が開催されました。
名古屋復興祭は、名古屋と名古屋港の復興を願い、名古屋に住む多くの人々を元気づけるために催されました。
10月22日(火)赤口
昭和天皇が名古屋市の戦災復興状況を視察されました。
12月12日(木)大安
「名鉄 新名古屋駅」が漏電によって、駅舎が全焼してしまいました。
《その他1,946年(昭和21年) 名古屋のできごと》
「名古屋城 内外苑」の一般公開が再開されました。
(名古屋城の内外苑は、昭和20年5月14日の名古屋城の空襲以来、公開停止となっていましたが、整備及び清掃がほぼ完了し、再開される事になりました。)
進駐軍の要請によって、名古屋の四大遊郭の一つと言われた北区の『城東園』が誕生しました。
城東園の最盛期には、高楼150件、娼妓800人が働いていたと言われ、毎年8月には城東園祭りが開かれていました。
和薬漢方の本草閣が第二次世界大戦の際、空襲で全焼した店舗を中区千代田に伝統的な木造工法で再建させました。
1,947年(昭和22年) 亥年(いのしし年)

2月21日(金)友引
15~16代名古屋市長に塚本三氏(つかもと ぞう 1,889年4月21日~1,952年8月25日)が就任しました。
3月10日(月)先勝
プロ野球球団名古屋軍から中部日本になった際、ニックネームの導入にあたり、当時のオーナーだった杉山虎之助氏(中部日本新聞社社長)の干支である辰の英訳である「ドラゴン」から、球団名を中部日本ドラゴンズ(ちゅうぶにっぽんドラゴンズ)に改称しました。
4月1日(火)大安
小林塗装店主小林ゆずが通っていた北区の「志賀中学校」が創立しました。
4月18日(金)仏滅
名古屋市立新制中学校49校が開校しました。
5月
中区大須でとんかつの専門店「矢場とん」が創業されました。
矢場とんの味噌カツは、屋台で食べられていた、『どて焼き』 をヒントに矢場とん初代社長が考案したそうです。
8月17日(日)友引
名古屋タイムスの記事で「空飛ぶ円盤」の記事が掲載されました。
8月12(火)先勝~13日(水)友引
の間に名古屋市内近郊で円盤を見たという人が多数いたそうです。
9月
リサイクル&ディスカウントストアの「キンブル」が創業しました。
10月1日(水)赤口
名古屋市内の人口が85万3,085人になりました。(第6回 国勢調査)
12月1日(月)仏滅
中区大須に「大須球場」が開場されました。
大須球場とは、名古屋大空襲で焼失した本願寺名古屋別院(西別院)の再興と大須の発展のため、大須七ツ寺勤労協和会を中心に愛知県と名古屋市の協力も得て、本願寺名古屋別院の境内に開設された球場です。
また、大須球場では、プロ野球の公式戦以外にも、女子プロ野球、ノンプロ野球や高校、軟式の野球場として利用され、オートレースやダンスパーティーなどにも使用されていたそうです。
なお大須球場は、経営不振によって昭和28年1月30日に閉場されました。
12月10日(水)先勝
名古屋市史跡名勝保存委員会から、市長あてに『名古屋城再建に関する陳情書』が提出されました。
《その他1,947年(昭和22年) 名古屋のできごと》
「名古屋高等裁判所」、「名古屋地方裁判所」、「簡易裁判所」が設置されました。

名古屋駅裏の焼肉店「慶北館」でホルモンを焼いた料理が作られ始めました。
中区大須で古着屋として「コメ兵」が創業されました。
名古屋市中区に「エビフライサンド」‥サンドイッチメニューが有名な老舗喫茶店「コンパル」が開業しました。 コンパルは、創業者である先代社長が戦争で中国へ行った時に、現地で非常に賑わっていた「金春」という飲食店があったそうで、帰国後に喫茶店を開業するに当たって、その店のように繁盛する店舗にしたいと思い、名付けたそうです。
平和公園が開園しました。(名古屋市中心の寺院278寺院の墓地の多くが平和公園に移転されました。)
その際には、尾張徳川家の菩提寺である建中寺にある墓地も移転しました。
この事によって、名古屋の戦後復興は、著しくなりました。
また、幻に終わった名古屋オリンピック(1,988年)では、平和公園内にオリンピックスタジアムが建設される予定でした。(そりゃ、反対されるわなぁ。‥‥)
1,948年(昭和23年)子年(ねずみ年)
1月5日(月)大安
午前10時15分頃、現在の名古屋市守山区大森三丁目の名古屋鉄道瀬戸線大森駅(現在の大森・金城学院前駅)東側のカーブで列車脱線転覆事故が発生しました。
36人が死亡、153人が負傷するという、名鉄瀬戸線史上最悪の事故となりました。
1,948年5月、法輪寺の住職江口耕雲が発起人となって事故現場に「交通安全地蔵」が建立され、1,949年1月には事故の一周忌で当時の名古屋鉄道社長である神野金之助氏の筆により「殉難の碑」が建立されました。
3月7日(日)先負
「愛知県国家地方警察」が発足しました。
4月1日(木)大安
名古屋市の「市立新制高等学校」が13校開校しました。
6月12日 (土)仏滅
早朝に中村警察署の武装警官386人、私服刑事80余人とMP(米軍憲兵)50人で、駅西の闇市を周囲から取り囲み、560余軒のバラックを捜査、約1,500人を連行し、闇物資を押収しました。
この時、押収されたものは『愛知県警察史』によると、あめ50貫、ビール360本、清酒3斗、青果物1,000貫、米15俵、魚類600貫、タバコ7,000本、ゴム長靴・運動靴1,000足、かまぼこ6,000枚に及びました。
7月10日(土)先負
新しい風俗営業取締法が公布されました。
この時期、『名古屋市警察史』によると、料理店85軒、カフェ20軒、特殊カフェ293件、割烹飲食店893軒、キャバレー3軒、ダンス教習所19軒、計1,313軒の風俗営業があったそうです。
7月18日(日)大安
名古屋みなと祭に花火大会が加わりました。
10月
高校三原則に基づく公立高校再編が行われ、「愛知県立第一高等学校」と「名古屋市立第三高等学校」が統合され、「愛知県立旭丘高等学校」(現校名)が発足し、男女共学を開始しました。
ちなみに旭丘高校は、愛知県の公立高校入試において最難関とされる公立高校です。
また、名古屋市立第二商業学校と名古屋市立第二工業学校が統合され、「名古屋市立西陵高等学校」となりました。
11月1日(月)仏滅
「名古屋市教育委員会」が発足しました。
12月1日(水)大安
前年に焼失した「名鉄新名古屋駅舎」が復旧しました。
12月15日(水)先勝
中区大須の万松寺通の舗装工事と街路灯が完成、竣工式が行われました。
《その他1,948年(昭和23年) 名古屋の出来事》

名古屋市瑞穂区高田町に「名古屋塗料株式会社」(現在のナトコ)が設立されました。
昭和区高辻に塗料メーカー「朝日商会」(現在のエーエスペイント)が創業しました。
名古屋人のソウルフードの一つ『スガキヤラーメン』が誕生しました。
ちなみに寿がきやラーメンのスープは、魚の粉末から出汁を取り、豚骨スープと合わせた寿がきや独自の和風豚骨スープで、最近流行っている豚骨しょうゆ‥と言ったダブルスープラーメンのはしりと言えます。
(ちなみに寿がきやの創業は、昭和21年です。)
名古屋市内の学童にいるシラミを「DDT」で駆除しました。

緑区鳴海の和食居酒屋「稲穂家」さんのルーツである食堂「稲穂家」が鳴海で創業しました。
名古屋市西区で遊技場を経営していた正村商会の正村竹一氏が、現在のパチンコ台の基本となる『正村ゲージ』を開発しました。
正村氏は『正村ゲージ』の特許をとらず、誰でも自由にこの正村ゲージを真似する事ができました。
そんな正村氏の心意気は「みんなで仲良く使うがええがや」‥と言った言葉に表れています。
また名古屋のパチンコ産業が栄えた理由として、戦前、航空機生産地であった事からベニヤ板、板金などの物資が豊富で職人も多かった事も、理由の一つに挙げられています。
名古屋市内で『玉へん景気』、『親指族』という言葉も生まれました。
昭和23年当時、パチンコ店は名古屋市内に104店ありました。
1,949年(昭和24年) 丑年(うし年)

1月3日(月)仏滅
「中日スタジアム」(現在のナゴヤ球場の前身)が開場されました。
1月6日(木)先勝
名古屋市内のトロリーバスが廃止されました。
2月15日(火)赤口
「大須ういろ(ういろう)」が創業しました。
3月15日(火)大安
「広報なごや」が創刊しました。
「広報なごや」は、行政への理解を深め、名古屋への関心を高める目的で発行されています。
4月1日(金)大安
新制「名古屋大学」、「名古屋工業大学」が開校しました。
4月1日(金)大安
熱田区川並町に「名古屋市中央卸売市場」が開設されました。
5月14日(木)赤口
名鉄グループの総合建設会社「矢作建設工業株式会社」が設立されました。
5月16日(月)仏滅
「名古屋証券取引所」が再開されました。
5月20日(金)友引
港区泰明町に「名古屋競馬場(通称=土古競馬場)」が開設されました。
「緑の名古屋競馬場」が当時のキャッチコピーでした。
6月1日(水)先負
名古屋市内で「ビアホールが再開」されました。
6月9日(木)大安
熱田区の愛知時計正門の左側に「熱田空襲 慰霊地蔵尊」が建立されました。
6月18日(土)友引
「ぞう列車」第1号が来園しました。
東山動物園のぞう(アジアゾウのエルドとマカニー)を見にいく為の列車「ぞう列車」が運行され、全国の子どもたちが2頭に会いに来ました。
10月
第1回「名古屋復興宝くじ」を発売しました。
10月7日(金)大安
中区金山に「金山体育館」が竣工されました。
10月24日(月)大安
中村区に「名古屋競輪場」が開設されました。
「スリルと娯楽の殿堂」が当時のキャッチコピーでした。
なお、名古屋競輪や名古屋競馬は戦災復興費の一部を得るために始められたもので、競馬場や競輪場を詳細に紹介するなど、名古屋市も積極的に競輪や競馬を奨励しました。
10月26日(水)先勝
プロ野球チーム『サンフランシスコ シールズが中日スタジアムで日本代表チームと親善試合』を行いました。
サンフランシスコ シールズは、日本のプロ野球チームに7戦全勝して、日米のプロ野球のレベルの違いを見せつけました。
ちなみにサンフランシスコ・シールズとは、1,903年から1,957年までアメリカにあったプロ野球チームです。
12月
中区広小路に「街路灯とネオンが復活」しました。
終戦後から、それまで暗かった広小路通の夜が明るくなったので、多くの市民が広小路に出掛けるようになりました。
《その他1,949年(昭和24年) 名古屋のできごと》

東区の「喫茶ボンボン」が創業しました。
喫茶ボンボンは、創業以来、「いいものをお値打ちで」という思いを込めて、いつでも作りたてのおいしいケーキを食べられます。
中区「大須東仁王門通り」が作られました。
大須東仁王門通りは、当時衣料品の町として賑わっていたそうです。
1,950年(昭和25年) 寅年(とら年)
2月
「瑞穂陸上競技場」が改修されました。
改修された当時は、 『東洋一を誇る陸上競技場』と謳われた陸上競技場でした。
3月
女子プロ野球チーム「名古屋レインボー」が結成されました。
女子プロ野球の最盛期には、25チームを数えました。
ただし、女子プロ野球チームは、戦後間もない女子野球は学生野球の基盤が全く無いところから、いきなりプロ野球として組織され、野球経験者も少なく、技術も未熟でだった事から、プロ野球としては定着しませんでした。
3月20日(月)先負~5月31日 (水)赤口
東山動物園で「子どもの天国名古屋博覧会」が開催されました。
4月1日(土)先負
名古屋市立大学(医学部、薬学部)が発足しました。
4月
名古屋市の花が「ユリ」に決まりました。
4月5日(水)先勝
国鉄「西臨港線」が営業開始しました。

8月30日(水)大安
東山植物園で育てられていた『オオオニバスが日本で初めて開花』しました。
9月28日(木)赤口~9月24日(日)友引
愛知国体(夏季大会)が開催されました。(秋季大会は、10月28日~11月1日)
秋季大会の開会式には、瑞穂運動場に約7万人の人々が訪れ、外にも人が溢れたそうです。
また、愛知国体が行われるにあたって、瑞穂区内の豊岡通、瑞穂通をはじめ、市内の幹線道路が拡幅・舗装されるなど、名古屋の都市基盤の整備も進められました。
10月1日(日)先負
第7回国勢調査人口が行われ、名古屋市内の人口は、1,030,635人でした。
12月
名古屋市内のパチンコ店は、694店となり、3年後の昭和28年まで市内のパチンコ店が急増しました。
12月25日(月)先負
名古屋市東区で『布地の大型専門店』大塚屋が設立されました。
《その他1,950年(昭和25年) 名古屋の出来事》
名古屋駅裏の焼肉店「豊明館」でホルモンを煮込んだ料理が作られ始めました。
熱田神宮の宮域整備事業の一環として、「熱田球場」が作られました。
熱田球場は、愛知県の高校野球の聖地として全国高等学校野球選手権愛知大会の決勝が開かれています。
なお、2,018年4月1日から3年間、名古屋市熱田区に本社がある愛知時計電機が施設の命名権を取得し、「熱田愛知時計120(いちにいまる)スタジアム」の愛称が付けられました。
1,951年(昭和26年)卯年(うさぎ年)

7月27日(金)大安
名古屋市内でテレビが初公開されました。
8月19日(日)大安
午後4時前、ナゴヤ球場で行われていた名古屋ドラゴンズ(現在の中日ドラゴンズ)対読売ジャイアンツ19回戦の3回裏名古屋ドラゴンズ攻撃中に、ネット裏スタンド、内野指定席上段から火災が発生しました。
火は、強風に煽られ、瞬く間に球場全体へ燃え広がり、午後5時40分の鎮火までにナゴヤ球場がほぼ全焼した他、正面スタンド入口脇の球場事務所、熊谷組の事務所、駐輪場、周辺の民家4戸、工場3棟も全焼してしまいました。
9月1日(土)友引
午前6時30分、日本初の民間放送局として、中部日本放送(CBC)ラジオ放送(本放送)を開始しました。
9月8日(土)先負
名古屋港の開発を目的として、「名古屋港管理組合」が設立されました。
10月25日(木)先負
名古屋市の市バスで『ワンマンカー運転』が開始されました。
11月15日(木)友引
『全焼したナゴヤ球場の再建工事が着工』されました。
12月1日(土)先勝
南区東又兵衛町に「帝人(株)名古屋工場」が立地されました。
1,952年(昭和27年)辰年(たつ年)
4月1日(火)先負
米軍に接収されていた昭和区「鶴舞公園」と西区「児玉プール」が名古屋市に返還されました。
鶴舞公園の接収が解除されると、桜の花が咲く中「名古屋市民花祭り」が開かれ15万人の入園者を集めました。
同年6月には菖蒲まつりが開かれました。
鶴舞公園では、現在も3月~6月に「花まつり」が行われており、イベント期間中は、普選壇などの歴史的建造物でもコンサートなどが催され、多くの人々で賑わっています。
4月5日(土)先勝
ネット裏に2階席を備えた鉄筋コンクリート造の『新しいナゴヤ球場』が完成しました。
5月2日(金)赤口
南区で「内田橋の渡り始め式」が行われました。
地元の内田橋商店街では、各店の店先に笹提灯を飾り、ダンスや映画演芸を行い、盛大に祝いました。
5月11日(日)先負
名古屋市の戦災復興事業に伴い、名古屋市内に点在する寺院の墓所を平和公園へ移す事が決まり、津金胤臣が埋葬されていた中区大須にある大光院でも墓地の改葬作業が行なわれました。
土中から胤臣の棺を引き上げる際に木棺の蓋が外れて屍蝋化した遺体が露出する事態が起きました。
5月14日(水)赤口
名古屋市住宅公社が建売住宅の建設事業を開始しました。
6月22日(日)大安~24日(火)先勝
「ダイナ台風」が来襲しました。
7月7日(月)(友引)
大須事件(おおすじけん)が発生しました。
中区大須で警察部隊とに共産党名古屋市委員会による共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆のデモ隊が激しく衝突しました。
路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥りました。
この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は、1人が死亡、19人が負傷しました。
8月
名楽園にて、婦人会が観光バス5台で参加する「家庭婦人納涼ドライブ」が開催されました。
(もし、そこに旦那さんがいたら、修羅場だろうなぁ。・・・・)
9月28日(火)大安
17~19代名古屋市長に小林橘川氏(こばやし きっせん 1,882年10月1日~1,961年3月16日)が就任しました。
小林市長の大きな実績として、久屋大通をつくる、若宮大通、伏見通、桜通、錦通広小路通などの拡張があります。
9月27日(土)仏滅
大須球場で『中部日本オートバイ選手権競争』が開催されました。
1,953年(昭和28年)巳年(へび年)

6月22日(月)仏滅
「熱田駅」舎が再建されました。
6月25日(木)先勝
中日球場で「初のナイター試合」が開催されました。
7月
東山動物園の「宵祭り」で『100万人のダンスパーティー』が開かれました。
ダンスパーティーは、生バンドによる演奏で行われ、カップルなど数千人が参加したそうです。
7月21日(火)仏滅
東海道本線の『名古屋~浜松間の電動化が完成』しました。
7月26日(日)先負
広小路通で乗用車以外の車が通行禁止となりました。
9月1日(火)大安
「名古屋~東京~大阪」間の長距離通話が開始されました。
9月
中区にあった大須球場の跡地に「名古屋スポーツセンター」が造られました。
名古屋スポーツセンターは、1,984年(昭和59年)に住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)との共同事業で公団住宅を併設する現在の姿となりました。
なお、名古屋スポーツセンターは、『大須スケートリンク』、『大須スケート場』とも呼ばれ、ここから伊藤みどり選手(世界選手権優勝)、恩田美栄選手(四大陸選手権2位)、安藤美姫選手(世界選手権優勝)、浅田真央選手(世界選手権優勝)、中野友加里選手(四大陸選手権2位)、村上佳菜子選手(四大陸選手権優勝)、宇野昌磨選手(平昌オリンピック2位)‥と言った世界的なフィギュアスケート選手を数多く輩出しています。
10月1日(木)先勝
中区栄に「丸栄」本館が新装開店されました。
丸栄本館は、日本を代表するモダニズム建築家の村野藤吾氏(むらの とうご 1,891年5月15日~1,984年11月26日)の手によって設計された、百貨店の建築物としては、日本建築学会賞作品賞を受賞した全国唯一の建築として知られています。
1,954年(昭和29年)午年(うま年)

1月14日(木)先負
中日新聞が単独で球団経営を行うと決定した事を受け、球団名を以前の中日ドラゴンズに戻しました。
3月25日(木)仏滅
「中日スポーツ」が創刊しました。
5月
鶴舞公園で「闘犬大会」が行われました。
全国から60頭の闘犬が参加しました。
5月15日(土)仏滅
西区の「押切公園」、港区の「港陽公園」が開園しました。
5月28日(金)大安
中区の中村呉服店が、「オリエンタル中村百貨店」(現在の名古屋三越)がオープンさせました。
(オープン当時は3階建てでした。)屋上には、日本初の屋上観覧車が設置されました。
現在、三越の屋上にある観覧車は、国の登録有形文化財になっています。
6月19日(土)大安
中区栄のテレビ塔が竣工し、名古屋でテレビ放送が開始されました。
日本で初めて作られた高さ180メートルの集約電波塔です。当時、テレビ塔は東洋一の高さを誇る高層建築物でした。
当時は現在の様な工事用機材がなく、基礎の土堀はツルハシとスコップで、鉄骨は人力で揚げる‥全てが手作業でしたが、人海戦術によって、9か月間で完成させました。完成当時、テレビ塔は東洋一の高さを誇る高層建築物でした。
なお、テレビ塔の設計者は、後に通天閣、さっぽろテレビ塔、東京タワー‥を設計した「耐震構造の父」と評される内藤多仲氏(ないとう たちゅう 1,886年6月12日~1,970年8月25日)です。
7月1日(木)先勝
新警察法施行に伴い、「愛知県警」が発足しました。
7月19日(月)先勝
大須観音境内に猿舎が完成し、『猿舎祭』が開催されました。
猿舎には、当時の小林市長と桑原知事が寄贈した猿2匹を含む、15匹が入りました。
8月31日(火)大安
中区栄町で、『名古屋市市営地下鉄の起工式』が行われました。
10月
テレビ塔の下に『丹頂型電話ボックスが設置』されました。
10月1日(金)先勝~10月31日(日)友引
「名古屋商工祭」が、開催されました。
現在では「な・ご・や商業フェスタ」として、毎年開催されています。
10月3日(日)先負
東山動物園のカバ、初代「重吉と福子」の結婚式が行われました。
10月19日(火)先勝
『中日ドラゴンズがセ・リーグで初優勝』しました。
マジック1の状態で、チーム移動日に巨人が阪神に敗れ、中日ドラゴンズの優勝が決まりました。
10月22日(金)仏滅
「千種台住宅団地」の総合計画が決定しました。
11月
名古屋大学が、東部丘陵地に都市計画学校として約78.4haが決定されました。
これによって、周辺の東山から、八事にかけての東部丘陵地帯一帯は、文教施設の立地の場として恵まれた環境をもつ地域として、多くの学校が立地し、良好な教育環境を形成していました。
11月7日(日)先負
中日ドラゴンズが初めて日本シリーズで優勝しました。
11月25日(木)大安
名鉄新名古屋駅の駅舎が改築されました。その際、構内の配線変更を行い、3面2線の現在の形になりました。
なお、2、3番ホームが比較的広いのは中線(旧2番線)を廃止した名残りです。
12月1日(水)大安
中村区名駅一丁目に「名鉄百貨店」(地上3階、地下1階 店舗面積54,974㎡)がオープンしました。
12月1日(水)大安
南区の「呼続公園」が開園しました。
ちなみに呼続公園は、曽池と呼ばれる池や野球場などがあり、椿や桜の名所としても知られています。
また、呼続公園の一帯からは、縄文晩期の竪穴式住居や中世の掘立柱建物の遺構が見つかっており、曽池の周辺からは土師器や山茶碗が、グラウンド造成の際にも須恵器が出土している事から『曽池遺跡』と呼ばれています。
《その他1,954年(昭和29年) 名古屋の出来事》
昭和29年頃 名古屋駅前に韓国焼肉料理店「精香園」がオープンしました。
中区の久屋公園のあたりに森永製菓がスポンサーとなっていた「エンゼル球場」ができました。
エンゼル球場とは、100m道路や地下鉄の整備に伴い、昭和37年で取り壊された「幻の球場」です。
旧国道41号線(名古屋-犬山線)の「防衛道路」が完成しました。
防衛道路という名前の由来は、戦後米軍が小牧基地を接収した際、他の道路に先駆けてこの道路の舗装を優先し、国庫の防衛分担金6,000万円(昭和28年当時)が投入されて作られた事が由来となっています。
現在の名古屋三越が「オリエンタル中村」としてオープンしました。
(オープン当時の建物は3階建でした。)
1,955年(昭和30年)未年(ひつじ年)

1月1日
中区のテレビ塔でNHKによる『初日の出』が全国中継されました。
1月17日
テレビ塔で『初の空中結婚式』が開かれました。
2月
名古屋市内で「ハエのさなぎ取り運動」(ハエの子退治運動)が実施されました。
2月1日(火)先負
「愛知文化会館」と「愛知美術館」が開館しました。
3月30日(水)先負
皇太子殿下(平成天皇)が東山動物園に来園されました。
4月5日(火)先負
愛知郡猪高村(千種区)・天白村(昭和区)が名古屋市に編入されました。
同日、中区テレビ塔の展望塔来場者数が、『100万人』を超えました。
4月5日(火)先負
テレビ塔の入場者が100万人を突破しました。
テレビ塔100万人目の入場者は、偶然にも設計者である内藤多仲氏の娘さんでした。
4月18日(月)仏滅
大須公園に噴水と池が造られ、竣工式が行われました。
5月5日
テレビ塔の一日あたりの来場者が8,519人を記録しました。
10月1日(土)大安
海部郡南陽町(港区)・海部郡富田町(中川区)、西春日井郡山田村(西区)・楠村(北区)が名古屋市に編入されました。
10月1日(土)大安
第1回「名古屋まつり」が開催されました。
11月
『名古屋市内でヘリコプターを使った毒蛾の幼虫退治』が行われました。
11月1日(火)先勝
名古屋駅前に「豊田ビル」が竣工しました。
《その他1,955年(昭和30年) 名古屋のできごと》
昭和30年頃 名古屋駅裏の焼肉店「豊明館」で牛すじ肉とワラビ、ネギを混ぜたテグタンスープが作られ始めました。
名古屋市内で、『名曲喫茶』、『シャンソン喫茶』、『ジャズ喫茶』、『歌声喫茶』など特徴ある喫茶店が次々と登場しました。
総合塗料メーカー「イサム塗料」が名古屋出張所を設置しました。
千種区の「星ヶ丘団地」が建設開始されました。
ちなみに星ヶ丘という地名の由来は、当時の名古屋市内で一番高い住宅地域の丘のだったことから「星に最も近く、輝く星の美しい丘」として『星ヶ丘』と名付けられたそうです。
西区に西春日井郡山田村が編入される事を記念して「蛇池公園」に桜が植樹されました。
1,956年(昭和31年)申年(さる年)

1月19日
中区テレビ塔の展望塔来場者数が、『200万人』を超えました。
2月15日(水)仏滅
進駐軍が鶴舞の鶴舞公園内にある「名古屋市公会堂」の接収解除を行いました。
4月1日(日)仏滅
名古屋駅前の毎日名古屋会館の上層階に「ホテルニューナゴヤ」がオープンしました。
オープン当時のホテルニューナゴヤは、名古屋のホテル業界にはない、全客室にエアコンと防音装置、浴室、テレビが付けられたハイグレードなホテルでした。
なお、昭和56年10月14日にホテルニューナゴヤは閉館されました。
6月24日(日)友引
中区のテレビ塔で『展望階段を使ったクライミング競争』が開催されました。
松下電工(現在のパナソニック電工)主催で、地上90mにあるテレビ塔の展望台まで393段の階段を利用したクライミング競争が行われ、60人が参加しましたが、途中で酸欠者、ゴールした後に倒れ込んで嘔吐をする者が続出した為、医者からドクターストップが掛かってしまい、それ以降クライミング競争は開催される事はありませんでした。
8月17日(金)赤口
北区で中部地域初の公団住宅「志賀団地(現在のアーバンラフレ志賀)」(全63棟 1,317戸)が竣工されました。
9月1日(土)先負
名古屋市が「政令指定都市」になりました。
9月5日(水)友引
米軍ジェット機が北区中富町の民家に墜落し、5戸が全半焼の被害を受ました。
10月6日(土)大安
千種台で名古屋市内では初めての「店舗付住宅」が竣工しました。
10月12日(金)大安
米軍に接収されていた「名古屋観光ホテル」が返還されました。
12月1日(土)友引
午前10時「中部日本放送」(CBCテレビ)がテレビ放送を開始しました。
《その他1,956年(昭和31年) 名古屋のできごと》
昭和31年頃 名古屋駅前中央市場付近に名古屋発の本格韓国料理店「大東園」がオープンしました。
「市土地区画整理事務所」が設地されました。(荒子川、猪高、西山地区区画整理事業)
オリエンタル中村百貨店(現在の名古屋三越)が7階建てに増床しました。
大同塗料の名古屋出張所が開設されました。
昭和42年に営業所、昭和56年に支店に昇格しました。
「毎日ビル」が名古屋駅前に竣工されました。
1,957年(昭和32年)酉年(とり年)

1月11日
中区テレビ塔の展望塔来場者数が、『300万人』を超えました。
2月12日(火)先勝
名古屋市議会の議員総会において、100メートル道路である若宮大通の道路整備の障害となる為、『名古屋刑務所移転及び、米軍接収地解除促進委員会』設置が了承されました。
当時、旧名古屋刑務所の移転先として、名古屋市の北東にあった守山市(現在の守山区)志段味地区が挙げられました。
(当時、名古屋市は守山市志段味地区に土地を所有していた為です。)
志段味地区への移転は、守山市民から強い反発を受け、志段味地区への移転は断念されました。
その後、旧名古屋刑務所は、愛知県西加茂郡三好町(現在のみよし市)へ移転する事となって昭和40年に同地へ移転しました。
3月15日(金)先負~5月31日(日)先負
東山動物園開園20周年記念「子どもの楽園世界探検博」が開催されました。
探検博の会場には、高さ22mの『ロケット塔』が展示されました。
3月18日(月)赤口
大須の万松寺通商店街に開閉式のアーケードが設置されました。
全長400m、総工費3,600万円で、当時名古屋市内最大のアーケードでした。
その後、昭和38年までに6つの商店街にアーケードが設置されました。

3月18日(月)赤口
名駅地下街「サンロード」が開業しました。(日本最古の本格的地下街です。)
3月22日(金)仏滅
「高杉土地区画整理組合」が設立しました。
4月30日(火)仏滅
テレビ塔の南側に「沈床花壇」と「芝生広場」が作られ、名古屋市民の憩いの場として開設されました。
5月31日(金)先勝
天白町(現在の天白区)一ツ山の宅地造成が竣工しました。
6月5日(水)赤口
名古屋城再建工事を間組(現在のハザマ)が3億9,800万円で落札しました。
再建当時は、「コンクリート造りで燃えない城を築いて、名古屋の博物館としたら良いのでは?」といった再建賛成論がありました。(今じゃ逆になっています。・・・・)
6月10日(月)大安
名古屋城再建工事を間組が名古屋市と請負契約を締結しました。
6月13日(木)友引
「名古屋城 再建工事挙行式」が行われました。
7月
地下街「新名フード」が開業しました。
8月1日(木)赤口
有料道路「愛岐道路」が開通しました。
愛岐道路は、国道19号の内津峠を緩和する目的でつくられ、1,987年(昭和62年)8月3日に無料開放されました。
11月7日(木)赤口
平和公園墓地移転(18万基)完了記念供養が行われました。
同日、中区のテレビ塔で赤、青、黄、緑、白のフラッシュ電灯15,000個を使った「五色の夜間カラー大撮影会」 が開催されました。
ライトアップの費用は、当時で200万円かかったそうです。
11月15日(金)友引
地下鉄1号線「名古屋~栄」間(2.4km)が開通しました。
名古屋市市営地下鉄は、国内で3番目に開通し、開業当時は2両編成で、運賃は15円均一でした。
11月15日(金)友引
「名古屋駅前地下街」が開業しました。
11月16日(土)先負
中区に「伏見地下街」(長者町地下街)が開業しました。
敷島製パン株式会社が名古屋市の観光土産として「なごやん」を発売開始しました。
発売当初は、「金鯱まんじゅう」という名前でしたが、発売翌年の1,958年(昭和33年)に「なごやん」と商品名が替えられたそうです。
《その他1,957年(昭和32年) 名古屋のできごと》
寿がきやが 新名古屋ビル地下1階に寿がきや2号店オープンさせました。
1,958年(昭和33年)戌年(いぬ年)
2月
現在の庄内緑地が『第3号庄内緑地』として指定されました。
その後、小田井遊水地を中心として、民有地の買収を行い、次第に公園としての整備を行い、1,986年(昭和61年)4月に「水と緑と太陽」をテーマに庄内緑地公園として開園しました。
3月20日(木)友引~5月31日(土)仏滅
東山動物園で、「宇宙旅行こども博覧会」が開催されました。
3月31日(月)先勝
中区の錦橋が竣工され、 「錦通り」が開通しました。
6月30日(月)赤口
米軍が接収していたアメリカ村(現在の中区白川公園)、キャッスルハイツ(現在の中区南外堀)が返還されました。
7月9日(水)先負
港区の「稲水ふ頭」の埋め立てが竣工しました。
9月1日(月)赤口
「東海製鉄」(現在の新日鉄名古屋工場)設立されました。
9月1日(月)赤口
小林塗装店主ゆずが通った北区光音寺の「光城小学校」が開校しました。
9月28日(日)大安
名古屋駅の西地区で大火が発生しました。
10月
『テレビ塔で初の塗り替え工事』が行われ、同年12月20日に完成しました。
現在、テレビ塔の塗り替え費用は、1回につき約2億円で、下地調整・補修・下塗り2回・上塗り2回の計4回塗りを行っています。
上塗りの際には、約5トンの塗料が使われています。
ちなみにそれ以降、テレビ塔は約7年おきに塗り替え工事を行っています。
10月21日(火)大安
名古屋市北区の市営「あじま北住宅」、「あじま荘」が入居開始されました。
11月1日(土)仏滅
地下鉄名古屋駅に初の自動改札機(無人入場機)設置されました。
12月25日(木)先勝
東区東桜に「東海テレビ」が開局しました。
《その他1,958年(昭和33年) 名古屋のできごと》
寿がきやの新聞広告の公募によって、寿がきやのマスコットキャラクター「スーちゃん」が誕生しました。
ちなみにスーちゃんの発案者は、当時名古屋市在住の銀行マンだそうです。
名古屋市東区に「愛知文化講堂」が開館しました。
1,959年(昭和34年)亥年(いのしし年)
1月14日(水)大安
東区の「宮前橋」が竣工しました。
3月5日(木)友引
「荒子川南部土地区画整理事業」の施行規程が施行されました。
3月21日(土)友引~22日(日)先負
名古屋城の金鯱が復元され、パレードで公開されました。(約80万人の人々が見物したらしいです。)
3月31日(火)赤口
中区テレビ塔の展望塔来場者数が、『500万人』を超えました。
4月1日(水)先勝
名古屋市とアメリカ ロサンゼルス市が姉妹友好都市の提携を結びました。
4月1日(水)先勝
「東海ラジオ放送」が放送開始されました。
4月5日(火)大安
中区栄に「愛知県図書館」が開館しました。
平成3年3月、以前の愛知図書館は閉館され、中区三の丸一丁目に「愛知芸術文化センター 愛知県図書館」として開館しました。
5月21日(木)大安
総合建築塗料メーカーである菊水化学工業が名古屋市中区で「菊水商事有限会社」として創業しました。
6月1日(月)仏滅
陸上自衛隊の第10師団司令部等が駐屯している守山駐屯地(守山区守山3丁目)が新設されました。
6月17日(水)仏滅
名古屋市内でカラーテレビが初公開されました。
7月20日(月)先負
名古屋駅前の大噴水が竣工しました。
9月1日(火)大安
名古屋市の人口が150万人を突破しました。
9月6日(日)大安
アフリカのカメルーンから、東山動物園にゴリラの子ども3頭が来園しました。
3頭は、「ゴン太」、「オキ」、「プッピー」と名付けられ、なんと20種類以上の芸をこなす、人気ゴリラとして活躍しました。
9月26日(土)先勝
「伊勢湾台風」(最大風速75m/s)が襲来しました。
伊勢湾台風は、名古屋市南部を中心に死者、行方不明者合わせて1,851人に上る、戦後最大級の重篤な被害を出しました。
10月1日(木)赤口
「名古屋城天守閣再建」の竣工式が行われました。
再建天守の総工費は、当時の6億4千万円で、そのうち2億円は市民からの寄付で賄われました。
天守閣再建の竣工式は、当初大々的に催す予定でしたが、伊勢湾台風の直後だった為、極めて簡素に挙行されました。
《その他1,959年(昭和34年) 名古屋のできごと》
現在の天白区一ツ山に名古屋市営「一ツ山住宅」の入居が開始されました。
好来系ラーメン「好来」がオープンしました。
北区に名古屋市営「如意住宅」と「喜惣治荘」が完成しました。
千種区星が丘山手に「愛知県立東山工業高等学校」(現在の愛知県立愛知総合工科高等学校)が開校しました。
1,960年(昭和35年)子年(ねずみ年)
4月1日(金)友引
「荒子川南部 土地区画整理事業」が着工されました。
4月23日(金)大安
中区テレビ塔の展望塔来場者数が、『600万人』を超えました。
6月15日(水)友引
地下鉄1号線栄町~池下間(3.6km)が開通しました。
7月1日(金)先勝
北区の災害公営住宅「あじま荘」が竣工されました。
7月31日(日)先勝
2回目の『テレビ塔塗替え工事が完了』しました。
10月1日(土)赤口
第9回国勢調査人口が行われ、名古屋市内の人口は、1,591,935人でした。
1,961年(昭和36年)丑年(うし年)

2月
不慮の災害で御園座の劇場が焼失してしまいました。
4月28日(金)仏滅
20~22代名古屋市長に杉戸清氏(すぎと きよし 1,901年10月10日~2,002年4月24日)が就任しました。
5月
総合塗料メーカー「ロックペイント」が名古屋営業所を開設しました。

6月
名古屋都市高速道路の調査・企画が開始させました。
6月1日(木)先負
名鉄「パノラマカー」が運転開始されました。
パノラマカーは、展望席を設けた斬新なデザインで、「名鉄不朽の名車」と言われています。
9月8日(金)大安
東山動物園にアフリカから、ゴン太を始め、3頭のゴリラが来園しました。
12月1日(金)先負
市電大江線、「開橋~昭和町」間が開通しました。(最後の市電延長です。)
12月4日(月)赤口
市幹部会で、100m道路の名称を「若宮大通」、「久屋大通」と制定しました。
《その他1,961年(昭和36年) 名古屋のできごと》

名古屋めしの一つ、スパゲッティハウスヨコイの創業者である横井博氏が『あんかけスパゲッティ』を誕生させました。
あんかけスパゲッティは、男性には絶代な人気がありますが、女性は「脂っぽい、量が多い、味が濃すぎる」などとしてたびたび敬遠される事があります。
ちなみに小林塗装の店主である小林ゆずは、喫茶「ドン・キホーテ」 のあんかけスパゲティー『エスカロープ=焼きチーズポークカツがあんかけパスタにのったもの』にパルメザンチーズとタバスコをかけたものが、大好きです。
なお、ドン・キホーテは、平田店、中川篠原店、城北店の3店舗(平成31年時)があります。
なお、ドン・キホーテは、平田店、中川篠原店、城北店、大曽根店の4店舗(平成30年時)があります。

名古屋市東区にある喫茶ユキで、「スパゲティが冷めないように」という店主丹羽清氏の想いから、熱したステーキ皿にナポリタンスパゲティを盛った独自の『イタリアンスパゲッティ』が誕生しました。
1,962年(昭和37年)寅年(とら年)

1月
日本横断運河構想(中部横断運河) が世論を大きく賑わせました。
当時自由民主党副総裁であった大野伴睦氏(おおの ばんぼく 1,890年9月20日~1,964年5月29日)の一大構想「日本横断運河」と称されていました。
(発案者は、昭和36年5月に当時の四日市市長である平田佐矩市長(ひらた すけのり 1,895年9月26日~1,965年12月6日)が発案しました。 )
この壮大な運河計画は、敦賀と塩津の間をほぼ直線で結んで琵琶湖に入り、琵琶湖からは、北国街道に沿って伊吹山の山裾を通って関ヶ原へ抜け、養老町を経由して揖斐川に入り、伊勢湾に達するもので、運河の全長は108kmに及び、敦賀側の開削部は19km、琵琶湖の航路は20km 、名古屋側の開削部は44km、揖斐川の利用は25kmとするものでした。
しかしながら、この計画は大野伴睦氏の死去(昭和39年)、平田佐矩氏の死去(昭和40年)、昭和40年の名神高速道路、昭和44年の東名高速道路の全線開通等により、日本国内の物流手段が自動車交通へ転換するという時流によって、いつの間にか立ち消えとなってしまいました。
1月25日(木)先勝
国鉄中央線、『名古屋~大曽根間の連続立体交差点化』が竣工されました。
1月
「名古屋市将来計画基本要綱」が公表されました。
2月
中川区の「富田焼却所」が竣工しました。
3月21日(水)大安
東区の『カトリック布池教会聖堂』が建てられました。
2,015年(平成27年)8月4日、国の登録有形文化財に登録されました。
4月1日(日)仏滅
「名古屋テレビ」(通称:メーテレ)が本放送を開始しました。
4月1日(日)仏滅
港区「小碓土地区画の整理事業」が着手されました。
7月21日(土)先勝
『市公会堂の憲法調査会公聴会で学生と警官隊とが衝突』しました。
8月31日(金)先負
西区の「新平田橋」が竣工しました。
9月
中区大須の「東仁王門通りのアーケード」が完成しました。
9月6日(木)先負
「久屋大通」が道路として認定されました。
当時、久屋大通は『名古屋のシンボルロード』として、大きく紹介されています。
9月17日(月)友引
牧が池緑地の大掃除が行われました。
9月27日(木)赤口
中央線「金山駅~千種駅間」が高架、複線化されました。
10月
西区の「山田焼却場」が竣工しました。
11月3日(土)仏滅
中区に「名古屋市科学館」が開館しました。
《その他1,962年(昭和37年) 名古屋のできごと》
アメリカから採卵専用、肥育専用にそれぞれ改良された種鶏が輸入され始められる事で、名古屋コーチンが存続の危機に見舞われました。
寿がきやが「粉末中華スープ」の開発に成功しました。
天白区「平針団地」の開発が5か年計画で始まりました。
平針団地は、68棟の県営住宅、422戸の分譲住宅の規模で、県営としては、初の大規模住宅として発展しました。
現在の名東区「猪子石住宅」の開発が始まりました。
1,963年(昭和38年)卯年(うさぎ・う年)
2月1日(金)友引
名古屋市立「若宮商業高等学校」、「北高等学校」が開校しました。

2月15日(金)仏滅
名古屋市が守山市を編入し、「守山区」が新設されました。
3月
中区丸の内に「愛知県産業貿易館」(設計 愛知県建築部 施工 清水建設)が開館しました。
その後の1,974年(昭和49年)には、西館が建設されました。
なお愛知県産業貿易館は、新たに愛知県産業労働センター(ウインクあいち)が開館するため、2,009年(平成21年)9月末をもって閉館しました。
4月1日(月)仏滅
愛知郡鳴海町が名古屋市に編入され、緑区が新たに設置されました。
4月1日(月)仏滅
地下鉄1号線「池下~東山公園間」(2.5km)が開通しました。
5月2日(木)赤口
堀川浄化の為、堀川の通水試験が初めて行われました。
6月1日(土)先勝
「覚玉山~東山公園」間の市電が廃止されました。
9月21日(土)大安
「ミヤコ地下街」がオープンしました。
10月
納屋橋名物の「納屋橋ピンクビル」が味のデパートとしてオープンしました。
納屋橋ピンクビルの外観は、建て主がフランスの港町マルセイユで見た建物のピンクをイメージしたものらしいです。
なお、納屋橋ピンクビルは,2000年(平成12年)前後に解体されました。
10月10日(木)赤口
大曽根商店街で「アーケード起工式」が行われました。

11月1日(金)赤口
名古屋市熱田区比々野町で創業した鶏料理・お食事処の風来坊で『手羽先唐揚げ』が考案されました。
12月10日
名駅新幹線の高架下に全長1.2㎞の「清正公街」、「浮島街」、「本陣街」、「栄生街」からなる『ショッピング新名古屋センター』がオープンしました。
しかし、昭和50年代になると空き店舗が増え、現在では、事務所・収納庫・店舗・会議室などに使われています。
12月16日(月)大安
NHK名古屋放送局が『テレビのカラー放送』を開始しました。
《その他1,963年(昭和38年) 名古屋のできごと》

緑区大高町に愛知県営の緑地公園である「大高緑地公園」が完成しました。
大高緑地公園は、無料で大型遊具、恐竜広場、ゴーカートが走る交通公園や、ボート、ベビーゴルフ場、バーベキュー場など、遊べる施設がとても充実しているので、大人から子供まで1日たっぷり楽しむ事ができます。
中区久屋大通の『100メートル道路』が完成しました。
100m道路の建設は、100m道路予定地の上にあった名古屋刑務所、墓所の移転に対して大きな反対があり、また市民から大ぶろしきと揶揄されながらも実現させました。
これらは後年、日本の大都市で最もモータリゼーションに適した名古屋市内の交通インフラの礎となりました。
駄菓子で有名なカクダイ「クッピーラムネ」が販売されるようになりました。
山崎川の洪水防止を目的とした準用河川である千種台川(ほとんどが暗渠)が『千種台総合排水計画』によって、掘削開始されました。
なお、この事業は昭和49年に完了しました。
1,964年(昭和39年)辰年(たつ年)

2月8日(土)赤口
東山動物園と植物園の間に『世界初の懸垂式モノレール』が運行開始されました。
モノレールは、三菱重工業が約2億円の工費をかけて建設しました。
最高時速は、120kmで大変高性能でしたが、園内では20kmの低速で運行していました。
なおこのモノレールは、1,974年12月18日に廃止されました。
2月22日(土)仏滅
中区テレビ塔の展望塔来場者数が、『1,000万人』を超えました。
3月29日(土)仏滅
午前9時55分、名古屋鉄道名古屋本線新名古屋駅(現在の名鉄名古屋駅)構内(新岐阜方面ホーム)で、停車中の新木曽川行き急行列車(4両編成)に後続の新鵜沼行き特急列車(4両編成)が追突し、143名が重軽傷を負いました。
4月1日(水)友引
中央線の「新守山駅」が開業しました。
7月1日(水)友引
北区の名城公園の一角にある「名城プール」が開設されました。
8月
名古屋港の「堀川口防潮水門」が完成しました。
8月1日(土)大安
北区の矢田川で「第1回 名古屋大花火大会」が開催されました。
なお、この名古屋大花火大会は、2,005年に万博による警備上の問題を理由として休止され、翌年の2,006年に廃止が決定されました。
(地元住民としては、復活してほしいです‥‥。)
9月
中区二の丸に「愛知県体育館」(施工=戸田建設)が完成しました。
9月1日(火)先勝
『CBCテレビ、東海テレビでカラーテレビ放送』が開始されました。
9月4日(金)仏滅
名岐バイパスの「名古屋~ー宮」間が完成しました。
9月7日(月)先負
「名古屋港高潮防潮堤」(総延長8,250m)が竣工しました。
(日本国内最大規模の防潮堤です。)
防潮堤には、完成直後から多くの釣り人が訪れる様になりました。
10月1日(木)先負
「東海道新幹線」が開通しました。
それに伴って、新幹線の名古屋駅も開業しました。
10月2日(金)仏滅
名古屋市内で、「東京オリンピックの聖火リレー」が行われました。
聖火リレーが行われた沿道には、約34万人といった多く人々が訪れました。
11月1日(日)大安
名古屋市科学館の本館が完成し、名古屋市科学館が全館開館しました。
12月1日(火)先勝
知多郡大高町と有松町が名古屋市に編入し、緑区の一部となりました。
12月7日(月)友引
西区の「平田住宅」が事業決定し、翌年から建設開始されました。
1,965年(昭和40年)巳年(へび年)
1月
「中部日本新聞」から「中日新聞」に改称されました。
1月27日(水)赤口
「鍋屋上野住宅」と「緑ケ丘住宅が」事業決定しました。
2月13日(土)赤口
緑区鳴子に日本住宅公団の造成した公団住宅「鳴子団地」 (75棟、全1,907戸)が完成しました。
4月1日(木)先勝
昭和区天白町(現在の天白区平針)に「平針運転免許試験場」が開場しました。
平針運転免許試験場は、年間100万人近くの人が運転免許取得や更新に訪れています。
ちなみに、平針という地名は、比較的平らな土地を開墾した事を意味する「平墾(ひらはり)」が転じたものと言われています。
4月1日(木)先勝
昭和区天白町(現在の天白区天白町平針)に「市農業センター名古屋市農業センター」(delaふぁーむ)が開場しました。
現在では、農業に親しむ機会の少なくなった名古屋市民に、農業を親しみながら、ゆったりと憩う事ができる農業施設として利用されています。
5月11日(火)友引
中村区の「名駅東地下街」が開業しました。
5月11日(火)友引
中村区に初代「大名古屋ビルディング」(三菱地所 設計)が完成しました。
5月15日(土)赤口
名古屋港13号地ふ頭を「金城ふ頭」と命名しました。
6月27日(火)友引
NHK名古屋放送局が『初めてテレビで大相撲名古屋場所のカラー中継』を行いました。
6月30日(水)先勝
「名神高速道路」(路線延長189.5 km)が全線開通しました。
9月8日(水)友引
栄地下街の「南北地下街」が開業しました。
10月1日(金)先負
中区大須の「大須演芸場」が開場しました。
大須演芸場は、ビートたけし、明石家さんま‥が、まだ売れていない駆け出し時代に出演しています。
また、大須演芸場は客が少ない事でも有名で、客が1人しかいない中で上演される事もあったそうです。
10月1日(金)先負
第10回国勢調査人口が行われ、名古屋市内の人口は、1,935,430人でした。
10月10日
3回目の『テレビ塔塗替え工事が完了』しました。
10月15日(金)大安
名古屋地下鉄2号線(名城線)、「栄町駅~市役所駅」間(1.3km)が開通しました。
10月16日(土)赤口
中区の「栄公園 地下自動車駐車場」が開業しました。
11月1日(月)赤口
「名古屋市住宅 供給公社」が設立されました。
11月16日(火)先負
中区栄のテレビ塔が、『名古屋観光 10選』に選ばれました。

12月20日
北区上飯田の「名鉄上飯田ビル」(地下1階、地上10階建て)が開業しました。
なお、名鉄上飯田ビル内の名鉄ストア(後のパレマルシェ)上飯田店が開業する同時期に駅ビル3階から上の公団住宅の入居募集が開始されました。
《その他1,965年(昭和40年) 名古屋のできごと》
北区大杉の久国寺(きゅうこくじ)に芸術家の岡本太郎が制作した梵鐘「歓喜の鐘」が設置されました。
1,966年(昭和41年)午年(うま年)

2月1日(火)大安
名古屋の地下鉄料金が、均一制から区間制に変更・改定されました。
2月28日(月)仏滅
北区の住宅公団(現在のUR)住宅公団「上飯田団地」が入居開始されました。
3月16日(水)友引
緑区の「相生山住宅」が建て始められました。
4月26日(火)友引
栄の「中日ビル(中部日本ビルディング)」(施工:竹中工務店)がオープンしました。
なお、現在の中日ビルは、耐震性の問題から2,019年(平成31年)3月末で閉館して、新ビルを建設する事を中日新聞社と中日ビルが共同発表しました。
4月29日(金)大安
中区栄の栄南地下街と中日ビルの地下連絡通路が開通しました。
5月13日(金)先勝
久屋公園の「花時計」が完成しました。
「花時計」は、テレビ塔の北側にひっそりとあります。
6月8日(水)大安
稲永第2ふ頭の埋立てが竣工しました。
9月
名古屋市中区瓦町にしゃぶしゃぶの木曽路1号店として、「木曽路 瓦町店」が開店しました。
9月30日(金)大安
千種区吹上の「吹上ホール」が開館しました。
吹上ホールは、中小企業の振興及び、産業貿易の促進並びに市民福祉の向上を図る目的で建てられました。
吹上ホールには、第1ファッション展示場、第2ファッション展示場の3つの展示場のほか、複数の集会施設などを備えています。
なお、昭和58年に建てられた中小企業振興会館は、世界的な建築家である黒川紀章氏(くろかわ きしょう 1,934年4月8日~2,007年10月12日)の設計です
9月30日(金)大安
名古屋市役所の西庁舎が完成しました。
10月1日(土)赤口
緑区大高緑地の「ゴーカート乗り場」が完成しました。
11月20日(日)赤口
「名古屋 近鉄ビル」が竣工されました。
名古屋近鉄ビルは、近代建築の三大巨匠ル・コルビュジエの弟子にあたり、モダニズム建築を実践した坂倉準三氏(さかく らじゅんぞう 1,901年5月29日~1,969年9月1日)の設計です。
《その他1,966年(昭和41年) 名古屋のできごと》
中京商業が甲子園大会で春夏連覇を果たしました。
田淵寿郎氏が名古屋市の『名古屋市 名誉市民第一号』に選ばれました。
なお、田淵氏の偉業ついては、名古屋市内小中学校の道徳の授業で使用される教科書にも記載されています。
「萬珍軒」の創業者が名古屋市中村警察署前で屋台を始め、とんこつ醤油ラーメンを販売開始しました。
昭和43年に現在の場所で営業開始移転後、「玉子とじラーメン」を開発しました。
その後、評判になって映画評論家の水野晴朗氏(みずの はるお 1,931年7月19日~2,008年6月10日)の著者紙の中で、名古屋の玉子とじラーメンが掲載されて有名になりました。
中川区と中村区境界の県道115号「黄金跨線橋(通称:黄金陸橋)」が開通しました。
西区に本社があった松永製菓(現在は、小牧市に本社があります。)で「しるこサンド」が開発されました。 しるこサンドとは、北海道産の小豆を使ったあんをハードタイプのビスケット生地で挟んで焼き上げた三層構造のお菓子の事です。
1,967年(昭和42年)未年(ひつじ年)

3月
名古屋市西区玉池町にある、山崎パンの名古屋工場が竣工し、稼働開始しました。
3月3日(金)大安
中区の「栄バスターミナル」が開業しました。
3月30日(木)先負
地下鉄1号線 「東山公園~星ケ丘間」(1.1km) 、地下鉄2号線「栄~金山」間(3.0km) が開通しました。
4月1日(土)大安
中区の「白川公園」が開園しました。
4月1日(土)大安
中区の「名古屋城二之丸庭園」が開園しました。
4月1日(土)大安
千種区の「星ケ丘パスターミナル」が開設されました。
4月1日(土)大安
「名古屋市水道局」が発足しました。
6月1日(木)先負
中村区の「名鉄パスセンター」が開業しました。
名鉄パスセンターは、日本初の本格的なバスターミナルで、昭和42年の竣工当時は世界的に見ても、同規模のバスターミナルは存在しなかったと言われています。
なお、名鉄パスセンターの設計は、谷口吉郎氏(たにぐち よしろう 1904年6月24日~1,979年2月2日)で、現在でも名古屋を代表する建物の一つとされる事もあります。
6月
中区住吉に「かに道楽 名古屋住吉店」が日置達郎氏(ひおき たつろう 1,935年6月20日~)によって、オープンしました。
6月
西区の「又穂団地」が(全1,044戸)完成しました。
又穂団地は、日本国内初の15階建ての高層アパートです。
7月26日(水)赤口
「天才クイズ」がCBCテレビで放送開始されました。
天才クイズは、約37年間にわたって放送されていた全1,930回の『伝説的ローカル番組』です。
8月13日(日)友引
東山公園「一万歩コース」が竣工しました。
9月18日(月)仏滅
八事霊園に名古屋市初の納骨堂が竣エされました。
10月23日(月)仏滅
名古屋市内初の「どんぐりひろば」が東区百人町と北区竜ノ口町につくられました。
《その他1,967年(昭和42年) 名古屋のできごと》
天白区のUR住宅「相生山住宅」、名古屋市営「高坂荘」の入居が開始されました。
1,968年(昭和43年)申年(さる年)

1月
名古屋市西区でシロノワールが有名な「コメダ珈琲店」が開店しました。
ちなみに「コメダ」という名前は、創業者である加藤太郎氏の家業が米屋で、「コメ屋の太郎」に由来しているらしいです。
4月10日(水)先負
栄のシンボル「久屋広場」が竣工しました。
4月25日(木)赤口
「東名高速道路」が開通しました。
6月
鈴鹿塗料(現在のスズカファイン)が名古屋出張所を開設しました。
6月10日(月)先勝
テレビ塔の展望台の上部に『スカイバルコニーが完成』しました。
8月1日(木)友引
東山動物園と東山植物園を統合し、「東山動植物園」に改称されました。
11月1日(金)先勝
中川運河の「松重閘門」が、通行船舶の減少によって、閉鎖されました。
12月24日(火)先負
名古屋市が「名古屋市将来計画」策定しました。
この将来計画では、「国際的機能の向上」や「経済的機能の向上」と共に、「文化的機能の向上」や「豊かで住みよい都市づくり」が課題に掲げられました。
《その他1,968年(昭和43年) 名古屋のできごと》
甘口抹茶小倉スパゲッティ‥といった珍メニュー?で有名な「喫茶マウンテン」が昭和区滝川町でオープンしました。
喫茶マウンテンは、平成30年時点でフード、ドリンク合わせてメニューが何と300種以上ありますが、今後も店主の加納幸助氏は、新作メニューの開発に取り組むそうです
八事の大学周辺に風俗営業や旅館、ホテル(モーテル=連れ込み宿)等の建築が目立ちはじめました。
良好な教育環境の維持が困難になり、特に名古屋大学周辺に出現したホテルの建設は、学校関係者は言うに及ばず、市民も巻き込んだ社会問題に発展しました。
このような問題に対処するために、5つの大学が集中している約14.9haの地区を昭和43年11月に文教地区に指定し、同年12月17日に「名古屋市文教地区建築条例」を公布し、即日施行しました。
1,969年(昭和44年) 酉年(とり年)

2月23日(日)先勝
名鉄の「神宮前~呼続」間の全面高架化が完成しました。
3月1日(土)先勝
「名古屋市交通局 藤が丘工場」が名東区朝日が丘(敷地の一部は長久手市)に開設されました。
藤が丘工場の広さは約94,000㎡で、日進工場に次ぐ大きさです。
4月1日(火)仏滅
地下鉄1号線の「名古屋~中村公園」間(3.5km)、「星ヶ丘~藤ヶ丘間」(4.4km)が開通しました。
4月1日(火)仏滅
中京テレビ放送が本放送を開始しました。
開局当初の中京テレビは、日本テレビ系列とNETテレビ(株式会社日本教育テレビ、現在のテレビ朝日)系列のクロスネット局でした。
4月1日(火)仏滅
「名古屋駅南口」が開設されました。
南口には、乗車券・入場券の券売機が設置され、営業開始に伴って、市電通りまでの歩道やタクシー乗り場も整備されました。
4月1日(火)仏滅
「八事興正寺公園」が開園しました。
4月25日(金)大安
地下鉄1号線の愛称が「東山線」に決定しました。
8月1日(金)赤口
瑞穂区東栄町に名古屋市内10番目の市立図書館として『瑞穂図書館』が開館しました。
平成27年7月10日には、名古屋市瑞穂公園に近い豊岡通3丁目に移転され開館しました。
10月5日(日)先勝
「ホテル ナゴヤキャッスル」が開業しました。
ホテルナゴヤキャッスルには、日本初の外壁に添って昇降する展望エレベーターが付けられました。
10月9日(木)大安
中区栄の久屋公園にある噴水「希望の泉」が竣工しました。
「希望の泉」は、名古屋テレビ放送(メ~テレ)の前身である「名古屋放送」が建設され、完成とともに名古屋市に寄贈した噴水です。
11月
中区の「サカエチカ」が開業しました。
広場には、クリスタルオブジェが設けられました。
11月11日(火)大安
名古屋のメインストリート広小路通の下に広がる地下街「サカエチカ」がオープンしました。
11月30日(日)赤口
千種区今池の「ダイエー今池店」(店舗面積8,884㎡)が名古屋市内のダイエー第1号店としてオープンしました。
ダイエーの中部地方かつ東海地方初進出店舗で、同地方のダイエーでは最も長い歴史を持つ店舗でした。
2,015年(平成27年)9月27日をもってダイエーとしての営業を終了したため、10月1日から正式にイオンへ名称変更されました。
ちなみにダイエー今池店が開業した際、ダイエー周辺を南北へ結ぶ通りとして、今池東南商店街の俗称として「ダイエー通り」という名が付けられました。
ダイエーがイオンに屋号を変更してからも、「ダイエー通り」の俗称は継続され使われています。
12月24日(水)友引
「FM愛知」が本放送を開始しました。
《その他1,969年(昭和44年) 名古屋のできごと》
名古屋の人口が200万人を突破しました。
名古屋市内で、「押しボタン信号」が初めて設置されました。
中区栄のテレビ塔の周りに「カミナリ族(現在の暴走族のルーツ)」が出現しました。
カミナリ族の周りには、多くの見物人が訪れたそうです。
当時は、オートバイ自体が庶民にとっては高価格なものであった為、カミナリ族のメンバーは中産階級以上の裕福な家庭の子供が多かったそうです。
この頃は世間や警察の目も、「麻疹のようなもの」、「若者の文化」と寛容で、騒音以外はさほど大きな問題にはされなかったようです。
昭和40年代後半くらいから、不良グループの少年達にも広がると、このようなグループは「暴走族」と呼ばれ、速さや運転技術を追求するよりも目立つ事が目的になり、低速での蛇行運転、箱乗り行為、鉄パイプ、金属バットなどを振り回したりした為、次第に社会的な批判が大きくなり、警察も取り締まりを強化し、「三ない運動」等が巻き起こりました
国道22号(略称:名岐バイパス)が全線開通しました。
ステーキハウス「ブロンコビリー」のルーツ「喫茶トミヤマ」が名古屋市北区にオープンしました。
中区栄地下街のクリスタル広場にベトナム戦争反対などを訴える「フォークゲリラ」が現れました。
1,970年(昭和45年)戌年(いぬ年)

1月23日(金)先負
中区テレビ塔の展望塔来場者数が、『1,500万人』を超えました。
3月9日(月)先負
北区の住宅公団(現在のUR)「上飯田第二団地」が入居開始されました。
4月1日(水)友引
「千種公園」が開園しました。
4月14日(火)大安
「国道155号バイパス」が開通しました。
4月14日(火)大安
東山動物園内に「バードホール」がオープンしました。
7月15日(水)大安
知多半島道路(大高~半田間 約20.9km)が開通しました。
7月30日(木)友引
現在の名東区藤が丘が藤森東部土地区画整理組合区域の換地処分による町名変更によって、誕生しました。
7月30日(木)友引
集中豪雨(台風6号)で、 瑞穂・港・南・緑の4区に災害救助法が適用されました。
9月6日(日)先勝
南大津通で名古屋初の歩行者天国が「名古屋 日曜遊歩道」という名称で開かれ、40万人の人出を呼びました。
一部では、あまりの人の多さに歩行者天国ではなく、『歩行者地獄』だといった声も聞かれたそうです。なお、この歩行者天国は、昭和59年まで続けられました。
10月1日(木)仏滅
第11国勢調査人口が行われ、名古屋市内の人口は2,036,053人でした。
10月6日(火)先負
「名古屋市公害対策審議会」が発足しました。
10月24日(土)先負
東山動物園内に「こども動物園」がオープンしました。
こども動物園は、子供達が動物とのふれあいを楽しみ、動物について学ぶ場として作られました。
11月2日(月)先勝
名古屋駅前地下街「ユニモール」が開業しました。
11月21日(土)友引
名古屋市西区香呑町にあった「ダイヤモンドシティ名西ショッピングセンター」がオープンしました。
ダイヤモンドシティ名西ショッピングセンターは、建物の老朽化などにより、2,005年(平成17年)6月20日に閉店しました。
11月21日(土)友引
ダイヤモンドシティ名西ショッピングセンター内に日本初の「ケンタッキーフライドチキン」がオープンしました。
(ケンタッキーフライドチキン1号店は、約半年後に閉店しました。)
12月10日(木)仏滅
地下鉄東山線に「上社駅」が新設されました。
《その他1,970年(昭和45年) 名古屋のできごと》

『中村公園の大鳥居が再塗装』されました。
名古屋大空襲によって焼失した「大須観音」が鉄筋コンクリートで再建されました。
東区大官町商店街で、毎週日曜日に「歩行者天国」が開催されました。(昭和47年まで)
名東区藤が丘の「公団藤ヶ丘団地」(456戸)が竣工しました。
1,971年(昭和46年)亥年(いのしし年)
3月28日(日)仏滅~4月7日(水)友引
名古屋市中区の愛知県体育館で、第31回世界卓球選手権大会が開催されました。
中国国内では、愛知県体育館は、日本と中国の国交正常化のきっかけとなった『ピンポン外交 ゆかりの地』として知られています。
6月8日(火)友引
西区堀越にある東洋レーヨン(現在の東レ)の野球グラウンドで行われていた工事の際、多くの遺物が出土しました。(堀越町遺跡)
7月21日(水)先負
「天白川サイクリングセンター」が開場しました。
7月26日(月)仏滅
名古屋市内で初めて「光化学スモッグ被害」が発生しました。
8月1日(日)仏滅
西区と北区にまたがる「洗堰緑地」が開園しました。
その後、2,000年(平成12年)の東海豪雨を受け、放流路西側の農地を撤去し、更に掘り下げ、遊水池としての洪水調整機能を高める改修が行われた後、2,006(平成18年)~2,007(平成19年)年度に野球場ほかのスポーツ施設や、ビオトープの設置など再整備が行なわれました。
なお、洗堰の左岸堤防には、1,955年(昭和30年)に西春日井郡山田村が名古屋市に編入された事を記念して、桜の樹が植樹され、「蛇池千本桜」として桜の名所となっています。
8月30日(月)仏滅
台風23号による集中豪雨で、港・緑両区に災害救助法が適用されました。
10月15日(金)仏滅
北区市営「東志賀荘」の入居が開始されました。
12月1日(水)大安
名古屋駅西口地下街の「エスカ」が開業しました。
12月4日(土)友引
久屋大通公園に「リバーパーク」が完成しました。
リバーパークは、久屋大通公園の北側にある、桜通大津から外堀通までのエリアの名称で、公園内は多くの木々に囲まれており、人工の川や池もあります。
12月10日(金)友引
名古屋市北区城見の「黒川ターミナルビル」(鉄筋コンクリート造 高層併存住宅11階建て)が竣工しました。
12月15日(水)先勝
4回目の『テレビ塔 塗替え工事が完了』しました。
12月20日(月)先勝
名古屋地下鉄2号線(名城線)、「市役所駅~大曽根駅」間(4.6km)が開通し、地下鉄2号線が全線開通しました。
12月22日(水)先負
西区の「庄内川橋」が全線開通しました。
《その他1,971年(昭和46年) 名古屋のできごと》

総合建築塗料メーカー「四国化研」(現在のエスケー化研)の名古屋出張所が開設されました。
現在のエスケー化研は、建築仕上げ塗材の国内最大手メーカーです。
特に外装用塗料の分野で強く、塗料メーカーの中では、日本ペイントや関西ペイントと並び、よく知られてます。
名古屋市千種区今池にある台湾料理店「味仙(みせん)」の店主である郭明優氏(かく みんゆう 1,940年~)が試行錯誤と研究の末「台湾ラーメン」を完成させました。
台湾ラーメンは非常に辛いので、辛さが苦手な人も食べられる様、アメリカンコーヒーと同じく辛さを薄くした「アメリカン」もあります。
北区の市営住宅福徳荘の入居が開始されました。
地下鉄名港線「金山~名古屋港」(約6.0km)間が開通しました。
1,972年(昭和47年)子年(ねずみ年)

1月24日(月)友引
日本陸軍の横井庄一氏(よこい しょういち 1,915年3月31日~1,997年9月22日)が、グアム島で発見されました。
帰国後は、名古屋市中川区富田町に居住されました。
6月1日(木)大安
久屋大通公園に「エンゼルパーク」が完成しました。
なお、エンゼルパークの「エンゼル」とは、森永製菓がスポンサーとなっていた幻の野球場「エンゼル球場」があった事が由来です。
8月10日(木)友引
名古屋市の木が、「クスノキ」に決定しました。
8月24日(木)仏滅
ナゴヤ球場に爆破テロ予告電話があり、ナゴヤ球場のナイター試合が中断されました。
その日の中日対巨人戦の試合中、球場に「三塁側内野スタンドに爆弾を仕掛けた。午後7時45分に爆発する。」という内容の電話があり、試合を午後7時38分に中断させました。
三塁側ベンチ内の巨人選手と三塁側内野席の観客を緊急避難させ、スタンド内を調べたましたが、不審物は見つからず、午後8時3分に試合を再開しました。
9月15日(金)先負
天白区久方に「ダイエー 鳴子店」(店舗面積5,312㎡)がオープンしました。
(なお、ダイエー鳴子店は、2,013年7月31日に閉店されました。)
10月
「名古屋市消費生活センター」が開設されました。
10月1日(日)先勝
中区金山の「名古屋市民会館」が開館しました。
10月5日(木)大安
名古屋市港区~四日市間を結ぶ『名四国道(めいよんバイパス 正しくは、めいしバイパス=国道23号バイパス 総延長53.9 km)』が開通しました。
11月6日(月)仏滅
守山区志多見にある「白鳥塚古墳」が国の史跡に指定されました。
11月
コーヒーチェーン店「支留比亜 珈琲店」が開業しました。
12月23日(土)仏滅
名古屋市中区錦1丁目の名古屋観光ホテルが建て替えられ、営業再開しました。
当時、名古屋一の高さ(81.5m)を誇り、客室数505室の国際級のホテルが誕生がしました。
《その他1,972年(昭和47年) 名古屋のできごと》

名古屋市北区八代町にラーメン専門店「陽龍」がオープンしました。
塗装職人の間でも、有名なラーメン屋さんで特製ラーメン(チャーシューメン)が絶対のおすすめです。写真は、「陽龍特製ラーメン」です。
中川区横井2丁目に温泉施設「大名古屋温泉」が開業しました。
残念ながら大名古屋温泉は、2,014年(平成26年)3月30日に閉館してしまいました。
1,973年(昭和48年)丑年(うし年)

2月1日(木)先負
江戸時代初期から伝わる「名古屋港 筏師一本乗り」が名古屋市の無形民俗文化財に指定されました。
筏師は、木曽の木材を筏に組んで運ぶのが仕事で、江戸時代にその技術が急速に進歩しました。
3月22日(木)先勝
名古屋市が消防用ヘリコプターを導入しました。
3月31日(土)仏滅
中区の広小路通から「屋台」がなくなりました。
4月
守山区西川原町の「アサヒビール 名古屋工場」が操業開始されました。
4月1日(日)大安
名古屋の市バスで均一制料金が採用されました。
4月27日(金)先負
北区上飯田に「上飯田ダイエー」(地上3階 店舗面積11,222㎡)がオープンしました。
(店主小林ゆずは小学生だった昭和60~62年頃、2階にあった本屋さんやおもちゃ屋さんによく行きました。)
4月28日(土)仏滅
23~25代名古屋市長に本山 政雄氏(もとやま まさお 1,910年10月10日~2,009年5月11日)が就任しました。
4月
名鉄百貨店 セブン館の1周年記念に「ナナちゃん人形」が設置されました。
ナナちゃんという名前は一般公募し、セブンをもじった親しみやすい名前である『ナナちゃん』に決定しました。
現在ナナちゃんは、名古屋駅前の顔として愛され、待ち合わせの場所などに多く利用されています。
6月30日(土)赤口
中区金山に「ダイエー 金山店」(店舗面積9,416㎡)がオープンしました。
(なお、ダイエー金山店は、2,012年9月30日に閉店されました。)
7月1日(日)先勝
名古屋市北区楠町喜惣治新田と西区山田町比良を結ぶ「喜惣治橋」が完成しました。
(店主小林ゆずは中学生の頃、喜惣治橋付近の地蔵川で、よくフナやナマズ釣りをしました。)
9月
中区丸の内にあった超高層ビル「タキヒヨー丸の内ビル」(高さ86.8m)が完成しました。
2,010年(平成22年)にエレベーターの不足や耐震強度問題、建築時に使用されたアスベスト除去費用の問題などから、解体されました。
9月
中区新栄二丁目に超高層ビル「雲竜フレックスビル」(高さ90m 施工:フジタ 当時は、フジタ工業株式会社)が完成しました。
竣工当時は名古屋市内初の超高層ビルとして大きな話題になりました。
なお、完成当時ビルの名前は「雲竜ビル」で、雲竜山乾徳寺の境内の一角につくられた事にちなんでいます。
9月15日(土)友引
名古屋市内で70歳以上の人に対し、『市営交通料金を無料化』にしました。
10月1日(月)友引
守山区東山町に「ユニ― 守山店」(店舗面積6,329㎡)がオープンしました。
ちなみに現在のピアゴ守山店は、2,015年7月17日(金)にリニューアルオープンしています。
10月5日(金)赤口
『市営交通料金の無料化65歳以上までに拡大』しました。
12月
昭和区の八勝館跡地に「ジャスコシティ 八事」(改築店舗面積17,000㎡)がオープンしました。
2,011年(平成23年)3月1日にイオングループのGMSを「イオン」に店名統一する事に伴って「イオン八事店」に改称されました。
《その他1,973年(昭和48年) 名古屋のできごと》
名古屋人のソウルフード店である、寿がきやが 直営100店舗を突破しました。
名古屋市農業センターは、名古屋コーチンの「かしわ肉」の生産という新たな展開を目指し、名古屋コーチン新系統の作出を取り組み始めました。
港区に「名古屋市国際展示場(ポートメッセなごや)」が開館しました。
1,974年(昭和49年)寅年(とら年)
1月14日(月)友引
名古屋市で初めて20%の節水が行われました。
2月28日(木)友引
北区中丸町の住宅公団(現在のUR)「中丸団地』の入居が開始されました。
3月20日(水)仏滅
港区の「潮見ふ頭緑地」が完成しました。
3月30日(土)先負
名古屋地下鉄4号線(名城線)の「新瑞橋駅~金山駅」が開通しました。
3月31日(日)仏滅
「名古屋市営路面電車」が全廃されました。
路面電車は、明治31年の創設以来、約77年の長い歴史を終えました。
ちなみに、現在名古屋市交通局日進工場の一角にある「レトロでんしゃ館」には、当時使用されていた電車3輌が保存展示されています。
3月31日(日)仏滅
瑞穂区新瑞橋に「新瑞橋バスターミナル」が開設されました。
7月14日(日)大安
矢田川緑地にサイクリングセンターが設置されました。
7月23日(火)仏滅
北区尾上町の住宅公団(現在のUR)「尾上団地」の入居が開始されました。
7月24日(水)大安
集中豪雨によって、名古屋市中川区と港区に災害救助法が適用されました。
10月12日(土)仏滅
中日ドラゴンズが巨人のV10を阻止し、1,954年(昭和29年)以来、20年ぶり2回目のセ・リーグで優勝を果たしました。
《その他1,974年(昭和49年) 名古屋のできごと》

北区の黒川沿いに「御用水跡街園」ができました。
御用水跡街園は、黒川の夫婦橋から猿投橋までの左岸、約1.6kmを昭和47年から約2年掛けて整備し、設けられたもので、1,663年(寛文3年)に名古屋城のお堀の水源として開削された「御用水」が由来です。
名古屋市港区九番町に公団住宅「九番団地」が完成しました。 その後、九番団地は2,017年8月1日付で、中駒産業(中村区)に譲渡されました。
名古屋市緑区と南区で、ゴミの分別が初めて行われる様になりました。

名古屋市名東区の「西山商店街」が誕生しました。
中村区名駅南に名古屋市内初めての超高層ビル「住友生命 名古屋ビル」(26階建 102m 設計;日建設計 施工;鹿島建設)が建てられました。
1,975年(昭和50年)卯年(うさぎ・う年)
2月1日(土)友引
千種区と昭和区から「名東区」、昭和区から「天白区」が新設されました。
2月1日(土)友引
「名古屋市住宅管理公社」が設立されました。
2月4日(火)大安
名駅の「市営バスターミナル」(名古屋バスターミナルビル)が営業開始しました。
3月14日(金)先負
「金城ふ頭南緑地」が完成しました。
6月4日(水)仏滅
「市営自転車駐車場」が地下鉄黒川駅東口に完成しました。
6月25日(水)友引
地下鉄名古屋駅の冷房が開始されました。
7月7日(月)友引
本山名古屋市長が「財政非常事態」を宣言しました。
9月1日(月)友引
緑区「有松・鳴海絞り」が国の伝統的工芸品に指定されました。
10月1日(水)先負
第12回国勢調査人口が行われ、市内の人口は2,079,740人 でした。
《その他1,975年 名古屋のできごと》
国道41号線の「名濃バイパス」が開通しました。
名濃バイパスとは、名古屋市から豊山町、小牧市、大口町、扶桑町、犬山市、岐阜県可児市を経て美濃加茂市までの約34kmを結ぶ、国道41号線のバイパスの事です。
1,976年(昭和51年) 辰年(たつ年)

1月14日(水)先勝
天白区・日進町の市町の境界変更の告示が行われました。
2月14日(土)先負
名鉄瀬戸線の「土居下~堀川」間が廃止されました。
3月21日(日)仏滅
名古屋市営地下鉄の今池駅に点字案内板と点字ブロックが初めて設置されました。
4月11日(日)友引
中京テレビ制作の「お笑いマンガ道場」が放送開始されました。(~1,994年3月27日まで)
お笑いマンガ道場は、当初中京広域圏を対象としたローカル番組でしたが、後に全国ネットで放送されるようになりました。
6月25日(金)友引
地下鉄中村公園駅、名鉄鳴海駅付近に自転車駐輪場が開設されました。
9月10日(金)赤口~12日(日)友引
台風17号による集中豪雨で、西区に災害救助法が適用され、さらに12日には同台風の集中豪雨によって、中川・港の2区に災害救助法が適用されました。
11月20日(土)先勝
名古屋駅前の地下街「テルミナ」が開業しました。
11月24日(水)赤口
地下鉄星ヶ丘駅、大曽根駅で「集改札自動化」が開始されました。
11月24日(水)赤口
北区の市営「上飯田南荘」が入居開始されました。
12月15日(水)先負
『名古屋仏壇が伝統的工芸品に指定』されました。
《その他1,976年(昭和51年) 名古屋のできごと》
名古屋カレーうどんの元祖「本店 鯱乃家」が名古屋市北区にオープンしました。
第1回「ミス名古屋コンテスト」が開催されました。
名古屋市主催のミス・コンテスト「ミス名古屋コンテスト」は、1,976年(昭和51年)から1,991年(平成3年)まで16回開催されました。
才色兼備の未婚女性から代表者を選ぶコンテストでした。
コンテスト優勝者は、ロサンゼルスへの親善訪問の他、名古屋まつりなどのイベント参加や観光PRを行い、1,978年(昭和53年)からは新たに姉妹都市になったメキシコシティへの親善訪問も加わった。
1,984年(昭和59年)から3代のミスはオーストラリアのシドニー市も訪問しました。
1,977年(昭和52年) 巳年(へび年)

3月18日(金)大安
地下鉄鶴舞線「伏見~八事」間(8.0km)が開通しました。
4月22日(金)先勝
東山植物園で「ナゴヤフラワーショー」が開催されました。
ナゴヤフラワーショーは、日本国内で最初に開催されたフラワーショーで、世界9ヶ国と全国各地から、花やモデル庭園を集めて展示されました。
8月25日(木)大安
愛知県知事 仲谷義明氏(なかや よしあき 1,925年10月27日~1,988年11月18日)が、1,988年オリンピックの名古屋誘致を提唱しました。
名古屋オリンピック構想とは、1,988年10月8日から16日間、名古屋市を中心に東海地方で21競技を繰り広げるといったもので、主競技場は、名古屋市の平和公園南部に建設し、市の試算では、大会運営費、競技施設費の合計は1,100億円といった壮大なものでした。(黒歴史の始まり)
9月6日(火)大安
中川運河「松重閘門」の保存が決定しました。
10月1日(土)友引
瑞穂区に名古屋市の人口200万人突破記念事業として、「名古屋市博物館」が造られ、開館しました。
名古屋市博物館の常設展示室では「尾張の歴史」を、特別展示室・部門展示室では尾張地域の歴史資料や、内外の文化遺産を紹介しています。
12月20日(火)友引
5回目の『テレビ塔 塗替え工事が完了』しました。
《その他1,977年(昭和52年) 名古屋のできごと》
名古屋市全域で、ゴミの分別が行われる様になりました。
1,978年(昭和53年) 午年(うま年)
2月16日(木)仏滅
『名古屋市とメキシコのメキシコ市が姉妹友好都市』の提携を結びました。
3月31日(金)赤口
瑞穂区を流れる山崎川河畔にある「四季の道」植栽が完了しました。
4月1日(土)先勝
北区の県営「織部住宅」が入居開始されました。
4月28日(金)大安
「アライグループ ラーメン福」の前身である「ラーメン藤」1号店が港区の十一屋にオープンしました。
6月
守山区森孝東に「清水屋 藤が丘店」(店舗面積17,534㎡)がオープンしました。
7月2日(日)先勝
中区テレビ塔の展望塔来場者数が、『2,000万人』を超えました。
8月18日(金)先負
オリエンタル中村百貨店(現在の名古屋三越)で、「都市計画展」が開催されました。
8月20日(日)大安
名古屋鉄道瀬戸線栄乗り入れ「栄町~東大手」間が開通しました。
9月
東区大幸町にどんどん庵郊外型1号店として「どんどん庵 砂田橋店」(東区大幸4丁目)が開店しました。
「どんどん庵」は、名古屋発祥のセルフスタイルのうどん屋チェーンです。
そば、きしめん、味噌うどんまで豊富にラインナップされています。
なお、どんどん庵砂田橋店は、2018年1月28日(日)に閉店しました。
10月
中区のサカエチカ、中央広場の名前を公募し「クリスタル広場」に決定しました。
10月28日(土)大安
久屋公園の「いこいの広場」が完成しました。
10月30日(月)先勝
久屋公園の「ロサンゼルス広場」が完成しました。
11月2日(木)大安
名古屋栄テレビ塔地下に「セントラルパーク地下街」が開業しました。
11月2日(木)大安
久屋公園の「もちのき広場」が完成しました。
12月21日(木)友引
『名古屋市と中国の南京市が姉妹友好都市』を結びました。
《その他1,978年(昭和53年) 名古屋のできごと》

名古屋人のソウルフード店である、寿がきやの「ラーメンフォーク」が誕生しました。
寿がきやのラーメンフォークは、大量に捨てられる割りばしを見て、当時の菅木周一社長が思いついたそうです。
ちなみに寿がきやのラーメンフォークは、その合理的で洗練されたデザインが認められて、ニューヨーク近代美術館(MoMA)にも置かれています。
また、寿がきやが直営店200店舗を突破しました。
『名古屋市バスの冷房バスが運行開始』されました。
名古屋市市議会で『緑化都市宣言』が決議されました。
1,979年(昭和54年)未年(ひつじ年)

3月29日(木)仏滅
地下鉄全駅に自動改札機が設置されました。
3月31日(土)赤口
緑区の大高地区『東海道本線連立体化』が完成しました。
4月30日(月)友引
現在の『港区金城ふ頭』が名古屋市域に編入されました。
5月1日(火)先負
名古屋市中区の「若宮大通公園」が開園しました。
6月17日
名東区猪高町大字高針の一部から、同区極楽一丁目、二丁目、三丁目がそれぞれ成立しました。
極楽という地名は、「洪水によって田畑が流されない安住の地として極楽と命名した」と言う説や、「小牧・長久手の戦いの際、敗残兵が命からがら当地に辿り着き、極楽と称した事」によると言う説‥いくつかの説があります。
なお、現在は極楽一丁目~五丁目まであります。
7月21日(土)先負
金城ふ頭に「ポートプレイランド」が開園しました。
7月25日(水)先勝
名古屋市内で初めて、名古屋高速道路の「高辻~大高」間(10.9km)が開通しました。
7月29日(日)大安
「名鉄豊田新線」が開通し、地下鉄鶴舞線と相互直通運転が開始されました。
9月
シンポ株式会社から、焼肉無煙ロースター(モスマック)が販売開始されました。
10月
千種区千代田橋に「サンテラス千代田橋」(現在のアピタ千代田橋)がオープンしました。
10月1日(月)赤口
「名古屋市市制90周年記念式典」が行われました。
11月4日(日)大安
北区の住宅公団(現在のUR)「水草団地」が入居開始されました。
12月1日(土)先負
東名阪自動車道、「蟹江~名古屋西」(3.7km)間が開通しました。
12月1日(土)先負
神宮東地区『特定住宅市街地総合整備促進事業の整備計画』が承認されました。

《その他1,979年(昭和54年) 名古屋のできごと》
ディスコ「PENT HOUSE」がオープンしました。
PENT HOUSEは、名古屋で流行した『星の子ダンス』の発祥地と言われています。
星の子ダンスとは、名古屋独特の振り付け、またはそれをDiscoにて行う集団の事です。
80年代初期~中期まで流行しました。
PENT HOUSEのダンスフロアでは、ハイエナジーからユーロビート、ロック、ニューウェーブなどが流れていたらしいです。
日本陶器(現在のノリタケカンパニーリミテド)が、日本初の本格的ドーム球場でありナゴヤ球場に代わるドラゴンズの本拠地球場として、名古屋市西区則武新町に「ノリタケドーム」の建設計画を発表しました。
1,980年3月24日現況調査計画書、1,981年4月27日に環境影響評価準備書といったそれぞれの届出が行われましたが、1,984年1月26日に指定事業廃止届が出され、中止となりました。
1,980年(昭和55年)申年(さる年)
2月15日(金)仏滅
市バスの急行が運行開始されました。(名古屋高速道路走行、栄~森の里間)
3月15日(土)大安
天白区にサークルK1号店「島田店」がオープンしました。
4月1日(火)大安
「大江川緑地」が開園されました。
大江川には、水銀を始めとする有害物質を多量に含む汚泥が河床にあった為、公害対策基本法の第22条及び、公害防止事業費事業者負担法により、大江川環境整備事業が行われました。
ちなみに大江川緑地は、隣接する南部工業地帯と北側住宅地とを遮断する目的を持った名古屋市第一号の緩衝緑地でもあります。
4月1日(火)大安
北区の県営「辻町住宅」の入居が開始されました。
(個人的には、かなり近代的なデザインの高層住宅だと思います。・・・・)
4月7日(月)大安
名古屋テレビが製作した「機動戦士ガンダム」が放送開始されました。
初回放送は、視聴率も売り上げも芳しいものでなく、全52話の予定が全43話に短縮される形で打ち切りになってしまいました。
ちなみに、機動戦士ガンダムの本放送に先駆けて、名古屋テレビ主催による『ガンダム公開試写会』が春休みに旧中区役所ホールで開催されました。
放映終了半年後にバンダイから発売された『ガンプラ』を使用した外壁と呼ばれるモビルスーツのプラモデルが子供たちの間で爆発的にヒットしました。
小林ゆずは、「旧ザク」、「アッガイ」、「ブラウ・ブロ」、「ガンダム情景模型(ジオラマ)ジャブローに散る」のプラモデルが好きでした。
4月26日(土)友引
守山区志段味に「東谷山フルーツパーク」が開園しました。
園内には、世界の熱帯果樹温室、果樹園、くだもの館などの施設があり、果物をテーマにしたユニークな農業公園として親しまれています。
6月
ローソンの名古屋1号店(名東区 香流店)が開店しました。
6月22日(日)友引
「名古屋桐箪笥」が伝統的工芸品に指定されました。
8月21日(木)大安
名古屋市瑞穂区にある大曲輪遺跡(貝塚)から、縄文時代前期の人骨が発掘されました。
9月16日(火)先負
オーストラリアのシドニーと名古屋市の間で姉妹友好都市の提携を結びました。
10月1日(水)赤口
オリエンタル中村百貨店が「名古屋三越」に改称されました。
12月28日(日)友引
港区の市営住宅「稲永団地」が完工しました。
《その他1,980年(昭和55年) 名古屋のできごと》

エビフライを故意に名古屋弁風に訛って言うタモリによって考案された単語『エビフリャー』が全国的に広まりました。
その当時はまだ、エビフライが愛知と名古屋の名物という地元意識はなく、日常的に「エビフリャー」と呼ぶ人もいなかったと言われています。
昭和57年10月4日からフジテレビ系列で放送開始された『森田一義アワー 笑っていいとも!』や自身の出演番組内で「名古屋ではエビフライの事を『エビフリャー』と言っている。」と名古屋や愛知県の話題が取り上げられるたびにそう発言した結果、エビフリャーという言葉は全国的に定着しました。
その後、エビフライを名古屋名物と勘違いする人々に飲食業界が着目し、新しいエビフライメニューが多く作られていきました。
名古屋市中区に津の天ぷら定食店「千寿」から、藤森夫妻がのれん分けをしてもらい、名古屋天むすのお店「千寿」が開店しました。
天むすが地元マスコミで取り上げられ、名古屋地区で話題なり、笑福亭鶴瓶がその評判を聞きつけ来店し、天むすを味わった鶴瓶はその味を気に入り、これがきっかけとなって、天むすは東京のテレビ局関係者の間でも評判となり、大手マスコミも話題に取り上げられる様になった事で、天むすは全国的にエビフライとともに名古屋の名物として、知名度を上げていきました。
第13回国勢調査人口が行われ、名古屋市内の人口は、2,087,902人でした。
天白区内の「国道153線バイパス」が開通しました
1,981年(昭和56年)酉年(とり年)
1月19日(月)先勝
名古屋港ガーデンふ頭埋の埋立てが完成しました。
4月4日(土)先勝
中京テレビ制作のバラエティ番組・音楽番組『5時SATマガジン』(~1,993年9月25日まで)が放送開始されました。
5月16日(土)仏滅
名城公園内の小河「せせらぎ」が完成しました。
店主小林ゆずは、完成した当時、母に連れられてよく行きました。
8月26日(水)先負
後楽園球場で行われた巨人対中日戦で、宇野ヘディング事件(うのヘディングじけん)がありました。
この突然のできごとに球場の観客や大爆笑しました。
更にこの事件がきっかけで「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」というテレビ番組がシーズン終了後に定着しました。
9月30日(水)大安
西ドイツ バーデンバーデン第84回IOC総会で、名古屋は1,988年夏季オリンピック招致に失敗しました。(名古屋の黒歴史?)
この夏季オリンピック招致に失敗の原因は、名古屋市民の意見や招致ロビー活動が不調で一枚岩にならなかったのが大きな原因と言われています。
また、当時の伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏(せじま りゅうぞう 1,911年12月9日~2,007年9月4日)が、韓国大統領であった全斗煥や盧泰愚は、瀬島氏の陸軍士官学校の後輩にあたり、金大中事件、光州事件‥内外の事情で悪化していた日韓関係の改善のため、日本政府として名古屋オリンピック招致に関与しない様、ソウルに勝たせるべく動いたという一説もあります。
10月18日(日)大安
中村区名駅に「ホテルキャッスルプラザ」が開業しました。
11月27日(金)赤口
地下鉄鶴舞線の「浄心~伏見」間(2.9km)が開通しました。

《その他1,981年(昭和56年) 名古屋のできごと》
中区新栄で名古屋のソウルフードの一つ、手羽先唐揚げで有名な「世界の山ちゃん」第1号店が開業しました。
1,982年(昭和57年) 戌年(いぬ年)

2月6日(土)先勝
名古屋テレビを制作局とした、『戦闘メカ ザブングル』 が放映開始(~昭和58年1月29日)されました。
3月10日(水)仏滅
名古屋市港区の藤前流通業務団地(第1工区)工事が完了しました。
3月28日(日)赤口
日本国内で初めて、基幹バス第1号(愛称: ミッキー)が東郊線(栄-星崎間)で運行開始しました。
4月10日(土)先勝
久屋大通公園に「セントラルブリッジ」が完成しました。(店主ゆずは、完成直後に渡りました。・・・)
9月21日(火)赤口
名古屋地下鉄1号線(東山線)、「高畑駅~中村公園駅」間(3.1km)が開通し、地下鉄1号線が全線開通しました。
10月4日(月)先勝
港区の金城ふ頭の埋め立てが完成しました。
10月18日(月)仏滅
中日ドラゴンズが1,974年以来、8年ぶり3回目のセリーグ優勝を果たしました。
10月29日(金)先負
名東区牧の里に「西友 高針店」(店舗面積9,831㎡)がオープンしました。
11月24日(水)赤口
東区代官町で名古屋市内初のコミュニティ道路「にれのこみち」が完工しました。
《その他1,982年(昭和57年) 名古屋のできごと》
天白川緑地(すげた・平針原緑道)が竣工しました。
1,983年(昭和58年)亥年(いのしし年)

1月25日(火)大安
港区「ガーデンふ頭の歩道橋」 が完成しました。
2月5日(土)仏滅
名古屋テレビを制作局とした、「聖戦士ダンバイン」 が放映開始(~昭和59年1月21日)されました。
前年に放映された戦闘メカザブングルに引き続き、宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ」 を意識して制作されています。
3月25日(金)赤口
昭和区塩付通に「西友 御器所店」(店舗面積3,161㎡)がオープンしました。
4月1日(金)先勝
中川区の「大当郎緑地」が開園しました。
4月11日(月)大安
久屋大通公園の「エンゼルブリッジ」が開通しました。
4月19日(火)先負
名古屋港がオーストラリアのフリマントル港と姉妹港提携を締結しました。
4月28日(木)赤口
「名古屋友禅」と「名古屋黒紋付染」が伝統的工芸品に指定されました。
4月30日(土)友引
東山植物園に「万葉の散歩道」が完成しました。
6月
名東区の明徳公園内の明徳池に釣り堀が作られ、オープンしました。
ちなみに明徳池では、フナやコイが釣れるそうです。
9月1日(木)赤口
テレビ愛知(TVA)が開局しました。
テレビ愛知は、日本の民放テレビ局では、100局目の開局となりました。
なお、テレビ愛知は、送信出力がほかの在名民放4局が設定している数値の3分の1であるにも関わらず、愛知県とその周辺地域369万8,000世帯(中京広域圏の総世帯数の約93%)をカバーしています。
名古屋親局の放送区域は、愛知県のほぼ全域と岐阜県岐阜市・海津市・羽島市・羽島郡・各務原市・大垣市・安八郡、三重県桑名市・朝日町・川越町・木曽岬町です。(素人なのでよく分らんけど、何だかすごい…。)
9月28日(水)大安
台風崩れの低気圧による集中豪雨が発生しました。
10月28日(金)先勝
中村区で全国初の民間施設併存市営住宅である「竹橋荘」が完成しました。
11月3日(木)先勝
東区の「名古屋市芸術創造センター」が開館しました。
名古屋市芸術創造センターは、名古屋法務局の移転後の跡地を再開発する事によって、建設されました。
12月1日(木)赤口
ディスコ「マハラジャ名古屋本店」がオープンしました。
《その他1,983年(昭和58年) 名古屋のできごと》
従来の名古屋コーチンよりも、腿肉や胸肉がよく発達した改良種である「名古屋Ⅱ」が誕生しました。
名古屋人のソウルフード店である、寿がきやが直営店300店舗を突破しました。
熱田区神宮3丁目に「名鉄パレ百貨店 神宮店」(現在のパレマルシェ神宮 店舗面積46,661㎡)がオープンしました。なお、名鉄パレ百貨店神宮店は、2,005年(平成17年)7月20日にオープンしました。
1,984年(昭和59年) 子年(ねずみ年)

3月
「山王緑道(御器所~洲原間)」が完成しました。
3月4日(日)先負
初の「名古屋女子マラソン」が開催されました。
3月28日(水)先負
第1回「ナゴヤエキトピア祭り」が開催されました。
現在、ナゴヤエキトピア祭りは、5月のゴールデンウィーク中に行われています。
5月14日(月)大安
「池下バスターミナル」が開設されました。
4月6日(金)友引
昭和区鶴舞に「名古屋市鶴舞中央図書館」が新築されました。
4月26日(木)仏滅
東山植物園内に「中南米産植物温室」がオープンました。
7月20日(金)先負
港区に名古屋港のランドマーク「名古屋港ポートビル」(高さ63m)が完成しました。
名古屋港ポートビルは、海に浮かぶ白い帆船をイメージした外観デザインで、昭和59年度名古屋市都市景観賞と第17回中部建築賞に入賞しています。
9月29日(土)先勝~11月25日(日)赤口
「名古屋城博覧会」が開催されました。
名古屋城の天守閣再建25周年記念事業で、金シャチが地上に降りました。
10月4日(木)赤口
アニメ「コアラボーイ コッキィ」がテレビ愛知で放送開始されました。
コアラボーイ コッキィが放送開始された当時、オーストラリアのタロンガ動物園から、東山動植物園、多摩動物公園、平川動物公園の3園にコアラが贈られ、日本国内でコアラ人気が高まっていた時期で、こうした時代背景を受けて企画制作されたアニメです。

10月12日(水)大安
中村区に「名古屋国際センタービル」が開館しました。
名古屋国際センターは、1,977年(昭和52年)12月の名古屋市議会における「名古屋市基本構想」議決を経て、名古屋地域の国際化を推進する事を目的として作られた公共施設で、建物高さが100mを超える超高層ビルは、名古屋国際センタービルが中京地区では初めてでした。
10月25日(火)友引
東山動物園にオーストラリアからコアラ「モクモク」と「コロコロ」がやってきました。
《その他1,984年(昭和59年) 名古屋のできごと》
肉用名古屋コーチンの供給が始まりました。
名古屋テレビを制作局とした、「重戦機エルガイム」 が放映開始(~1,985年2月23日)されました。

天白区の「島田東部 土地区画整理組合」が発足しました。
東区赤塚交差点にあるラーメン屋さん「福寿苑」が創業開店しました。
(ゆうゆうラーメン、ゆうゆうチャーシュー、チャーハン、ニラタマがおすすめです。)
1,985年(昭和60年) 丑年(うし年)
1月9日(水)大安
「中部新国際空港」建設促進期成同盟会が発足しました。
3月2日(土)大安
名古屋テレビが製作した「機動戦士Zガンダム」が放送開始されました。
前作の「機動戦士ガンダム」で登場したデザインのテイストを受け継ぎ、なおかつ新しいものを生み出すという意図のもと、若い世代のデザイナー永野護らが参加した、当時としてはかなり斬新なアニメでした。小林ゆずは、「百式」、「メッサーラ」、「パラス・アテネ」、「ジ・オ」が好きでした。
小林ゆずが個人的に一番好きなガンダムです。
3月3日(日)赤口
第1回「名古屋国際女子マラソン」が開催されました。
3月20日(水)大安
港区金城ふ頭から海部郡飛島村を結ぶ「名港西大橋」(全長758m 当時の斜張橋で世界最大)が開通しました。
3月21日(木)友引~ 4月14日(日)友引
港区金城ふ頭で「名古屋輸入博覧会」が開幕しました。
昭和60年当時は、1ドルが250円の時代だったので、憧れの海外ブランド製品が割安で購入できた事もあって、連日、輸入博覧会の会場は来場者で溢れかえったそうです。
4月1日(月)先勝
名古屋市内の地下鉄駅構内が『全面禁煙』になりました。
4月6日(土)赤口
港区野跡の稲永公園に「名古屋市野鳥観察館」がオープンしました。
稲永公園は、ツギやチドリを中心とした水鳥の全国有数の渡来地で、特に春と秋の渡りの時期には多く多くの鳥が飛来し、冬期には数多くのカモやハマシギが見られます。 年間を通して120種類の野鳥を観察するか事ができます。
4月28日(日)大安
26~28代名古屋市長に西尾 武喜氏(にしお たけよし 1,925年1月10日~2,006年8月29日)が就任しました。
5月26日(日)仏滅
東区白壁(しらかべ)、主税(ちから)、橦木(しゅもく)‥地区が名古屋の町並み保存地区に指定されました。

8月16日(金)先勝
名古屋港で南極観測船「ふじ」(基準排水量5,250t、全長100m、速力17.2kt、航続距離15.000海里(15kt巡航時)、乗員200名)が展示オープンしました。
10月1日(火)赤口
第14回国勢調査人口が行われ、名古屋市内の人口は、2,116,381人でした。
11月3日(日)大安
名古屋のクラブディスコのはしりである「Dance Hall」がオープンしました。
11月23日(土)先負
「第1回名古屋シティマラソン」が開催されました。
1,986年(昭和61年)寅年(とら年)

2月28日(金)友引
中川区「松重閘門」のライトアップが開始されました。
3月2日(日)仏滅
名古屋テレビが製作した「機動戦士ZZガンダム」が放送開始されました。
4月1日(火)赤口
西区の「庄内緑地」が都市公園として開園しました。
4月1日(火)赤口
中川区の「松重閘門公園」が開園しました。
4月27日(日)先負
西区の庄内緑地の公園内に「庄内緑地グリーンプラザ」が開館しました。
5月27日(火)仏滅
「松重閘門」、「鶴舞公園普選壇」‥が名古屋市指定文化財に指定されました。
6月10日(火)友引
西区の「四間道」地区が町並み保存地区指定されました。
6月20日(月)大安
緑区徳重に「アピタ緑店」(店舗面積19,770㎡)がオープンしました。
ちなみに現在アピタ緑店は、名古屋市内最古のアピタです。
8月5日(火)大安
中区久屋大通が「日本の道百選」に選出されました。
10月27日(月)友引
名古屋都市高速1号線、「白川~千音寺」間(6.6km)が開通しました。
11月
中区錦に「セントラルパーク アネックス」(店舗面積10,800㎡)がオープンしました。
11月
名古屋市天白区に『遊べる本屋』をキーワードにした「ヴィレッジ・ヴァンガード」一号店が開店しました。
12月10日(水)先勝
名古屋栄に「cafe abime」の前進であるディスコ「abime」がオープンしました。
《その他1,986年(昭和61年) 名古屋のできごと》
名古屋市で『公文書公開制度』が実施されました。
1,987年(昭和62年) 卯年(うさぎ年)
1月31日(土)先負
東区大曽根地区の「優良再開発建築物整備促進事業」が完了しました。
1月31日(土)先負
港区「築地口地区」の再開発促進事業が完了しました。
3月
東山動物園に跨座式モノレールの「スカイビュートレイン」が完成しました。
3月19日(月)先勝
「名古屋城整備基本構想」(本丸御殿など復元)が発表されました。
5月12日(火)赤口
「ナゴヤファッション協会」が設立されました。
ナゴヤファッション協会は、尾張地域のファッション産業の振興・支援を目的として設立された団体で、地域が誇る繊維産業の歴史と伝統をベースにした産業の発展とファッションマインドの高揚、次世代を担う才能の育成を目指し、最新情報やネットワークなどを活かした様々なプロモーション活動を行っています。
6月21日(土)大安
中区テレビ塔の展望塔来場者数が、『2,500万人』を超えました。
7月9日(木)先勝
熱田区の「断夫山古墳」が国の史跡に指定されました。
7月13日(月)大安
西区の中小田井地区が町並み保存地区に指定されました。
8月1日(土)赤口
第1回「名古屋城夏まつり」が開催されました。
8月31日(月)友引
名古屋都市高速道路高速3号線「新洲崎JCT~名駅出口」間(0.8km)が開通しました。
11月1日(日)赤口~11月13日(金)赤口
名古屋港開港80周年記念「ポートフェスティバル ’87」が開催されました。
11月30日(月)先勝
千種区覚王山地区の「優良再開発建築物整備促進事業」が完了しました。
12月1日(火)友引
ディスコ「King & Queen」がオープンしました。
12月10日(木)大安
ふるさとの川、モデル河川に「山崎川」が指定されました。
《その他1,987年(昭和62年) 名古屋のできごと》
名古屋市西区のラーメン専門店「万楽」がオープンしました。
1,988年(昭和63年)辰年(たつ年)
4月22日(金)先負
「名古屋市美術館」が開館しました。
なお、名古屋市美術館は、建築家黒川紀章が設計し、名古屋城や大須観音、熱田神宮‥といった名古屋の伝統的な建築物の意匠を随所に取り入れているそうです。
7月25日(月)大安
若宮大通公園の「冒険広場」、「水の広場」が完成しました。
9月30日(金)先負
「名城公園フラワープラザ」が開館しました。
なお名城公園フラワープラザは、「第6回全国都市緑化なごやフェア」(愛称 「緑・花・祭なごや’88」)の記念施設です。
10月1日(土)仏滅
名東区の「引山交通広場」が供用開始されました。
10月7日(水)先負
ナゴヤ球場で行われたヤクルト戦で、中日ドラゴンズが1,982年(昭和57年)以来、6年ぶり4回目のセリーグでリーグ優勝しました。
10月28日(金)友引
緑区黒沢台に「西友 鳴海店」(店舗面積7,279㎡)がオープンしました。
12月21日(水)大安
名古屋都市高速道路高速2号線「楠~萩野」間(2.2km)が開通しました。
《その他1,988年(昭和63年) 名古屋のできごと》
台湾ラーメンが有名な北区大野町の「辛龍」が創業開店しました。
(辛龍の台湾ラーメン、牛すじ、渡り蟹のから揚げ、チャーハンがおすすめです。)
名古屋都市高速道路高速1号線「白川~吹上」間(2.7km)、高速3号線「山王JCT~新洲崎JCT」間(1.0km)、高速分岐3号「山王JCT~東別院」間(1.2km)が開通(合計4.9km)しました。
1,989年(平成元年)巳年(へび年)

3月1日(水)赤口
中区栄に超高層高級ホテル「ヒルトン名古屋」(28階建 110.5m 設計:竹中工務店)が建てられました。
3月23日(木)大安~3月29日(水)大安
「わくわく交通博」が開催されました。
3月29日(水)大安
名古屋都市高速道路2号「堀田出口」が開通 しました。
4月
中区久屋公園の「いこいの広場」のライトアップが開始されました。
5月25日(木)赤口
港区春田野に「農業文化園」が開園しました。
6月29日(木)赤口
中区栄に「名古屋PARCO」が開店しました。
ちなみに名古屋PARCOは、全国のPARCOの中で売り上げがトップらしいです。
7月1日(土)友引
熱田区と中区にまたがるターミナル駅「金山総合駅」がオープンしました。
金山総合駅は、名鉄の名古屋本線、JR東海の中央本線と東海道本線、名古屋市営地下鉄の名城線、名港線の合計3社局5路線が乗り入れており、名古屋市内では名古屋駅に次ぐターミナル駅として機能しています。

7月4日(火)先勝
北区名城の下水道局名城処理場内に「下水道科学館」がオープンしました。
下水道科学館の館内には、「下水道バーチャルアドベンチャー」、「トイレの仕組み」などがあります。
7月11日(火)友引
名古屋市制100周年を記念して、千種区の東山公園内に「東山スカイタワー」が建てられました。
(134m 施工:鹿島建設、大成建設、徳倉建設)
なお、東山スカイタワーの展望台からは、JRセントラルタワーズ、名古屋城、テレビ塔、ナゴヤドームなど名古屋市内を一望できるほか、天気が良ければ、御嶽山や鈴鹿山脈の山々や三河湾、志摩半島などを眺める事ができます。
また、東山スカイタワーは、夜景がとてもきれいな事でも知られており、2,004年(平成16年)7月には「日本夜景遺産」選定され、更に同年8月「夜景100選」に選定された国内有数の夜景スポットでもあります。

7月12日(水)先負
名古屋市中村区名駅桜通口の前にあるシンボル的なモニュメント「飛翔」が設置されました。
飛翔のデザインは、縄文土器の縄がイメージになって、名古屋の市民が大輪になって新しいまちづくりをする事と、21世紀に向かって、世界へ情報発信する名古屋を象徴しているらしいです。
7月14日(金)大安
久屋公園の「光の広場」が完成しました。
7月15日(土)赤口
名古屋市制100周年を迎えるにあたって、「世界デザイン博覧会」が同年11月26日まで開催され、期間中に約1,518万4,000人(名城会場=約372万人・白鳥会場=約753万人・名古屋港会場=約393万人)の人々が来場しました。
世界デザイン博覧会は、名古屋オリンピック誘致に失敗したのち、関連自治体は代替のイベント開催を模索し始め、市制100周年記念事業として、開催される事になりました。
しかし、当時の名古屋市内には、博覧会の会場に適した50〜100haという大規模な用地は確保する事ができませんでした。そこで会場の分散が検討され、熱田神宮に近い堀川沿いの白鳥にある30ha位の貯木場が埋め立てられメイン会場となりました。
この白鳥会場をメイン会場にして、堀川に沿い、北は名古屋城、南は名古屋港にサブ会場を作る事となったそうです。
なお、この世界デザイン博覧会をきっかけとして、名古屋の景観も一新され、デザインに対する市民の意識も高まったそうです。(ほんとうかなぁ。・・・・)
しかし、後に博覧会自体は約8億2,600万円の赤字だったという事、その補填穴埋めのため名古屋市が世界デザイン博覧会協会からベンチやゴミ箱など物品や施設を約10億2,600万円購入していた事が発覚しました。
9月
久屋大通商店街とフランスのシャンゼリゼ大通の商店街が友好提携を結びました。
9月10日(日)赤口
名古屋地下鉄6号線(桜通線)、中村区役所駅-今池駅が開通しました。
同日、名城線「久屋大通駅」が新設されました。
9月29日(火)仏滅
大曽根商店街「オズモール」がオープンしました。
10月1日(日)仏滅
「名古屋市制100周年記念式典」が開催されました。
10月11日(水)友引
「名古屋市 市政資料館」が開館しました。
10月28日(土)先勝
東山動物園の「自然動物館」が開館しました。
12月14日(木)先負
千種区の『唐山地区 優良再開発建築物整備促進事業』が完了しました。
《その他1,989年(平成元年) 名古屋のできごと》

守山区にスーパー銭湯の元祖である「竜泉寺の湯」がオープンしました。
竜泉寺の湯にある露天風呂から見る名古屋の夜景は、穴場の夜景スポットと言えます。
また、竜泉寺の湯は、2,018年12月26日にリニューアルオープンし、大人の癒し空間『フォレスト ヴィラ』も完成しました。
中川区と港区の戸田川両岸に広がる「戸田川緑地」が開園しました。 戸田川緑地内にある戸田川子どもランドは、「これでなくっ茶」の中北薬品 活命茶のコマーシャルにも使われている公園しても知られています。
1,990年(平成2年) 午年(うま年)

2月8日(木)先勝
千種城木地区の優良再開発建築物整備促進事業が完了しました。
2月25日(日)友引
ガーデンふ頭に係留されている南極観測船「ふじ」の中でオホーツク海の流氷が展示されました。
3月2日(金)先勝
中区のテレビ塔が『名古屋市イメージアップ賞』を受賞しました。
4月28日(土)先勝
名古屋市熱田区の白鳥公園内にある大規模多目的ホール「名古屋国際会議場」が開設されました。
9月11日(火)大安
『再びナゴヤ球場で火事』がありました。
ナゴヤ球場で行われた中日-大洋22回戦の試合開始前の午後5時56分頃、スコアボード右横の照明塔下部付近にあるごみ集積場から出火しました。
一時は10m近く火柱が上がり、黒煙がグラウンドに立ち込めたので、ライトスタンドにいたファンをグラウンドへ避難させました。
火は18時11分に消し止められましたが、竹製のくずかご50個のうち約30個が焼失し、集積場の扉や屋根が焼けてしまいました。
普段は全く火の気がない事から、出火の原因はタバコの火の不始末と考えられています。
12月
「ザ・シーン徳川園」(高さ89.9m設計:積水ハウス・鹿島建設 施工:鹿島建設)が竣工しました。
ザ・シーン徳川園は、積水ハウスが分譲した名古屋市内の民間によるタワーマンションのはしりとなる建物で、徳川美術館や蓬左文庫などのある徳川園の近くに建設された為、「徳川園」という名称が付きました。
1,991年(平成3年)未年(ひつじ年)

1月31日(木)先負
西区円頓寺商店街の『開慶座』が閉館しました。
開慶座は、明治中期に浪曲小屋として始まり、寄席も行っていたそうですが、太平洋戦争後、女剣劇が受けてから、徐々にお色気路線となっていき、昭和30年代の初めから、ストリップショーだけになったと言われています。
3月19日(火)大安
東名阪自動車道「勝川~清洲東」間(7.1Km)が開通しました。
4月14日(日)先勝
熱田区の「白鳥庭園」が開園しました。
白鳥庭園は、四季折々の風情を楽める中部地方最大級の規模を誇る日本庭園です。
8月7日(水)友引
第1回「名古屋ごみ会議」が開催されました。
8月26日(月)大安
東区東桜に超高層ビル「NHK名古屋放送センタービル」(21階建 95.0m 設計 日建設計 施工:大成建設・鹿島建設・矢作建設工業)が建てられました。
ちなみにNHK名古屋放送センタービルは、平成4年度の名古屋市都市景観賞を受賞しています。
10月4日(金)仏滅
中区の若宮大通が建設省(現在の国土交通省)の地区レベル「都市景観大賞」を受賞しました。
10月29日(火)赤口
港区の「名古屋港水族館」がオープンしました。
名古屋港水族館は、日本国内の水族館延床面積ランキング1位で、屋外には世界最大級の野外水槽(13,400t)があり、非常にダイナミックなイルカやシャチのショーを間近で見る事ができます。
10月30日(水)先勝
東区東桜に「愛知県芸術文化センター」が開館しました。
12月4日(水)友引
城北線「勝川~尾張星の宮」間(9.3km)が開通しました。
12月20日(金)先勝
6回目の『テレビ塔 塗替え工事が完了』しました。
《その他1,991年(平成3年) 名古屋のできごと》
プロサッカークラブ「名古屋グランパスエイト」が創設されました。
1,992年(平成4年)申年(さる年)

4月12日(日)赤口
名古屋市総合体育館レインボープール・弓道場等が開館しました。
4月23日(木)大安
港区春田野の春田野土地区画整理事業によって、「ジャスコシティ 南陽」(現在のイオン南陽店 店舗面積11,795㎡)がオープンしました。
2,011年(平成23年)3月1日にイオングループの総合スーパーをイオンに店名統一する事に伴って、「イオン南陽店」に改称されました。
9月12日(土)大安
名古屋市内の『学校週5日制が実施開始』されました。
10月2日(金)先負
「明和高校前の街園」が建設省の都市景観大賞を受賞しました。
10月29日(木)先勝
名古屋市港区のガーデンふ頭に「名古屋港水族館」が開館しました。
名古屋港水族館が開館したこの日は、10,671人が入館しました。
12月4日(金)先負
南区東又兵ヱ町に名古屋市総合体育館「レインボーアイスアリーナ」が開館しました。
1,993年(平成5年)酉年(とり年)

3月18日(木)先負
東海交通事業城北線「尾張星の宮~枇杷島」間が開通しました。
3月
店主小林ゆずが週2~3回通っていたクラブ「GLOBE」が(CLUB DACOTAの跡地)東区の清水口にオープンしました。
週末に開かれてた定期イベント「ウルトラ」によく行きました。
同年10月のUKテクノハウス(マンチェスターハウス)の先駆である、「808ステイト」のイベントが楽しかったです。
3月頃
クラブ「GLOBE」でグリッドの「Crystal Clear」が流行りました。
5月13日(木)赤口
小林ゆず、クラブ「GLOBE」でDj Toidaさんが話しかけてくれました。
Dj Toidaさんは、後にゆずの座右の銘となる『常識ある変態』という言葉を投げ掛けてくれました。
3月31日(水)大安
北区黒川地区、昭和区緑町の『地区優良再開発建築物整備促進事業』が完了しました。
3月31日(水)大安
笹島~広小路葵間の『広小路通 景観整備事業』が完成しました。
4月30日(金)大安
名古屋市港区品川町に「荒子川公園 ガーデンプラザ」が開園しました。
6月8日(火)仏滅
小林ゆず、皇太子徳仁親王、雅子様「結婚の儀」の前日、久屋にあったクラブ「WB」でどんちゃん騒ぎをしました。・‥・この事は、なぜかよく覚えています。
7月16日(金)先勝
天白区天白町に「東山公園テニスセンター」がオープンしました。
8月12日(木)赤口
名古屋地下鉄3号線(鶴舞線)、「上小田井駅~庄内緑地公園駅」間(1.4㎞)が開通し、地下鉄3号線が全線開通しました。
9月頃
クラブ「GLOBE」でフランキーゴーズハリウッドの「Relax」が流行りました。
10月7日(木)大安
東山動物園の「世界のメダカ館」が開館しました。
世界のメダカ館は、世界中から集められた約200種類3,000匹のメダカや淡水魚が展示されており、庄内川の上流から河口域までを再現したジオラマ風の水槽もあります。
10月21日
港区当知の「清水建設社有地」に「ポートモールアピタみなと」(現在のポートウォーク港 店舗面積 約25,728㎡→約28,000 ㎡ 清水建設施工)がオープンしました。
その後ポートモールアピタみなとは、「ポートウォーク港」に改称して2,014年(平成26年)11月7日に増床リニューアルオープンしました。
ちなみにポートモールアピタみなとは、イタリアミラノの著名建築家であるアルド・ロッシ氏(1,931年5月3日~1,997年9月4日)に店舗・外観の設計などを依頼しました。
日本国内の大手スーパー系ショッピングセンターとしては、初めて外国人の著名な建築家を起用しました。
オープン当時、アピタの外観が水色・黄色・オレンジ色で塗られた印象的な色彩となったのも、この事からでした。
11月
北区の「アンビックス志賀ストリートタワー」(高さ82.4m 事業主・施工:日本国土開発)が竣工しました。
店主小林ゆずは、アンビックス志賀ストリートタワーが建てられた当時、北区も都会になったなぁ。と思った記憶があります。
11月頃
クラブ「GLOBE」でアンダーワールドの「Cow girl」が流行りました。
11月15日(月)大安
西区の定住促進モデル住宅「シティ・ファミリー浄心」が竣工しました。
12月3日(金)大安
東名阪自動車道の「名古屋IC~勝川IC」(8.8㎞)が開通しました。
《その他1,993年(平成5年) 名古屋のできごと》
北区の矢田川と庄内川に掛かる橋長約350mの「ふれあい橋」が完成しました。
1,994年(平成6年)戌年(いぬ年)

3月
久屋公園の「エンゼル広場」改修工事が完成しました。
3月17日(木)先勝
西区二方町にあった三菱商事グループのアイテックス(旧愛知紡績)本社工場遊休地に「ワンダーシティ」(店舗面積59,935㎡)がオープンしました。
3月30日(木)友引
地下鉄桜通線「今池~野並」間(8.6km)が開通しました。
5月1日(日)大安
名古屋市内の地下鉄改札口内トイレでの『トイレットペーパーが設置』されました。
6月14日(火)仏滅
西区則武に「トヨタ産業技術記念館」(竹中工務店 施工)が開館しました。
トヨタ産業技術記念館は、トヨタグループ発祥の地に残された大正時代の赤レンガ造りの豊田自動織機製作所栄生工場を産業遺産として保存、活用して設立された博物館です。
また、遊具で楽しく遊びながら、織機や自動車について学ぶ事ができます。
6月20日(月)仏滅
テレビ塔『開業40周年イベント』が行われました。
6月25日(土)先負
港区藤前に日光川公園プール「サンビーチ日光川」がオープンしました。
サンビーチ日光川は、国内で最大級の水面積を持つ淡水プールで、南洋のリゾート地の海辺をイメージして造られています。
『名古屋のワイキキ』としても知られています。
7月17日(日)友引
名古屋港のレジャー施設「シートレインランド」がオープンしました。
シートレインランドには、中部地方最大級の高さ85mの大観覧車があり、カップルや家族連れのレジャー施設として賑わいがあります。
7月19日(火)仏滅
北区のふれあい橋と新川中橋の間にある『矢田川の河川噴水』が完成しました。
矢田川の河川噴水は、矢田川の水を取水口から取り入れて 河川敷の地下にあるポンプで圧力をかけ、 川の中のノズルから最大50mの高さまで噴き上げています。
なお、河川噴水の操作は、北スポーツセンター内の電気室で自動制御されています。
9月4日(日)大安~9月6日(火)友引
第49回国民体育大会「わかしゃち国体夏季大会」が開催されました。
愛知県での国体開催は、第5回大会1,950年(昭和25年)以来2度目で、大会スローガンは「いい汗キャッチ! 生き生き愛知」、大会公式マスコットは「シャッチー」でした。
《その他1,994年(平成6年) 名古屋のできごと》
港区名古屋市国際展示場全館で日本最大級のフリーマーケット「マンモスフリーマーケット」が開催されました。
ちなみに2,014年(平成26年)から、マンモスフリーマーケットは、「マンモスフリーマーケットZ」にリニューアルしました。
名古屋市消防局のマスコットキャラクター「ケッシィ」が誕生しました。
1,995年(平成7年)亥年(いのしし年)

5月8日(月)赤口
なごやの日(平成7年5月8日)にちなんで各種記念イベントが開催されました。
8月
名古屋市中区錦二丁目に「錦パークビル」(高さ92.7m 設計:住宅・都市整備公団、青島設計 施工:竹中工務店、戸田建設、鴻池組、淺沼組JV)が竣工しました。
9月1日(金)友引
日進市と境界変更しました。
9月19日(火)友引
都市高速道路高速2号線「萩野~東新町」、高速分岐2号線「丸の内~片端」間(合計5.9km)が開通しました。
11月15日(水)先勝
港区の定住促進モデル住宅「シティ・ファミリー港楽」が竣工しました。
11月27日(月)友引
名古屋港水族館で日本初の『アデリーペンギンの孵化』に成功しました。
12月22日(金)大安
北区の「喜惣治大橋」が開通しました。
12月23日(土)赤口
中区栄のクラブディスコ「VELVET(ディスコ DIONの跡地)」でDJジョン・ロビンソンのイベントが開かれました。
《その他1,995年(平成7年) 名古屋のできごと》
名古屋港水族館で世界初の「アカウミガメの室内人工ふ化」に成功しました。
名古屋市北区にラーメン「唐変木」がオープンしました。
店主ゆずがよく訪れるラーメン屋さんです。滋味溢れるチャーシューメン、野菜炒めラーメンや唐変木巻きがおすすめです。
1,996年(平成8年)子年(ねずみ年)

1月1日(月)先負
名古屋グランパスが天皇杯で優勝しました。名古屋グランパス初のタイトル獲得となりました。
1月2日(火)仏滅~5日(金)先勝
小林塗装店主小林ゆず、栄にあったクラブ「アローシャ」のペンキ塗りをDjさん達と施工しました。悲惨な正月でした。
4月22日(月)先勝
名古屋市内の中学校でスクールランチが本格実施されました。
5月
北区成願寺にあった旧名古屋紡織所の跡地に超高層マンション「ザ・シーン城北」(45階建 高さ161.9m 延床面積74,246㎡ 総戸数381戸 設計 積水ハウス・青島設計・鹿島建設
施工 鹿島建設)が完成しました。
ザ・シーン城北が建設された当時は、日本一高いマンションとして大きな話題となりました。
ちなみに現在(平成31年)でも、名古屋市内では2位の超高層マンションで、今でも北区のランドマークと言えるマンションです。
5月20日(月)先勝
『名古屋市のホームページ』が開設されました。
6月1日(土)先勝
島田緑地に「ビオトープ公園」がオープンしました。
7月12日(金)先勝
南区豊田の日清紡績(株)名古屋社宅の跡地に「アピタ 名古屋南店」(店舗面積 12,569㎡)がオープンしました。

8月8日(木)大安
平成8年8月8日を名古屋市の市章である「まるはち」制定88年の記念して、同日を「まるはちの日」として、名古屋市内各所で記念イベントを開催しました。
8月30日(金)大安
名古屋城再建後の入場者が5,000万人を突破しました。
9月25日(水)友引
守山区小幡三丁目の『優良建築物等整備事業』が完了しました。
10月6日(日)先勝
ナゴヤ球場の最後の1軍戦、『中日対巨人 最終戦』が行われました。
11月15日(金)友引
中区栄に「デザイン都市宣言」に盛り込まれた国際デザインセンター事業として、名古屋市立中央高等学校の跡地を利用し、複合型商業施設「ナディアパーク」が建てられました。
ちなみにナディアパークという名称は、「Nagoya」(名古屋)と「Design」(デザイン)、「Youth」(若さ)、「Amusement」(楽しさ)、「Park」(公園=人が集う楽しい場所)の頭文字を合わせて作った合成語です。
(23階建 108m 戸田建設・竹中工務店・大日本土木・矢作建設工業・三菱建設・ナカノコーポレーション・福田組・熊谷組・浅沼組・太平工業・大豊建設・伊藤工務店 施工)
《その他1,996年(平成8年) 名古屋のできごと》
中区の定住促進住宅「シティファミリー丸の内」が完工しました。
1,997年(平成9年)丑年(うし年)

3月12日(水)大安
東区矢田に中日ドラゴンズの本拠地として「ナゴヤドーム」(両翼100m、中堅122m、左右中間116m 収容人数:40,500人 竹中工務店 設計監理)がオープンしました。
3月31日(月)赤口
昭和区の定住促進住宅「シティファミリー御器所」が完工しました。
4月1日(火)先勝
昭和区鶴舞公園内にあった「奏楽堂」が復元されました。
4月2日(水)友引
中区三の丸の「名古屋能楽堂」が開館しました。
4月28日(月)赤口
29~31代名古屋市長に松原武久氏(まつば らたけひさ 1,937年1月26日 ~)が就任しました。
松原市長は、就任後に藤前干潟の埋め立て問題に直面して以来、ゴミや環境対策に強く取り組んだ他には、教育関係、特に歴史的文化関係の事業に力を注ぎ、『徳川園の整備』や『名古屋城本丸御殿プロジェクト』にも力を尽くしました。
5月23日(金)友引
守山区の「志段味 ヒューマンサイエンスパーク研究開発センター」が開館しました。
9月18日(木)赤口
港区港明のブラザー工業港工場の一部に「アピタ 東海通店」(店舗面積 12,356㎡)がオープンしました。
その後アピタ東海通店は、現在の「MEGAドン・キホーテUNY東海通店」に改称して2,018年(平成30年)3月9日にリニューアルオープンしました。

10月13日(月)友引
都市高速道路高速2号「黒川出入口」が開通しました。
同日、北区清水4丁目に名古屋高速道路公社・広報資料センター(ネックス プラザ)がオープンしました。
ネックス プラザでは、名古屋高速道路の建設や管理について、楽しみながら学ぶ事ができます。
1,998年(平成10年)寅年(とら年)

3月15日(日)赤口
東区新出来2丁目の「新出来シティ住宅」が完工しました。
3月17日(火)友引
千種区春里地区の『都心共同住宅供給事業』が完了しました。
3月21日(土)赤口
北区辻町の興和紡績名古屋工場跡地に「アピタ 名古屋北店」(店舗面積15,343㎡)がオープンしました。
3月22日(日)先勝
緑区相生山緑地の自然散策コース「オアシスの森」が開設されました。
オアシスの森は、都市化が進展していく名古屋の中で“身近な自然”として貴重な存在になっています。
3月21日(土)赤口
北区辻町に「アピタ 名古屋北店」(アピタと40の専門店)がオープンしました。
(店主ゆずがよく行くアピタです。)
3月30日(月)大安
伊勢湾岸自動車道「名古屋南JCT~東海IC~飛島IC」間が開通しました。
それに伴い同日、「名港トリトン(名港三大橋)」も開通しました。
3月31日(火)赤口
『中村区稲葉地密集住宅市街地の整備促進事業』が完了しました。
3月31日(火)赤口
名東区の定住促進住宅「シティファミリー上社」が完工しました。
4月20日(月)仏滅
中川区宮脇町の自動車学校跡地に「ヨシヅヤ 太平通り店」(店舗面積15,200㎡ 施工 戸田建設)がオープンしました。
5月2日(土)仏滅
中区大須にランを中心とした植物のミニテーマパーク「ランの館」が開館しました。
2,014年(平成26年)9月に『久屋大通庭園フラリエ』としてリニューアルオープンしました。
6月12日(金)仏滅
2,005年(平成17年)に愛知県で万博(愛・地球博)が開催される事が決定しました。
7月18日(土)大安
テレビ塔の来場者数が、『3,000万人』を超えました。
7月23日(木)赤口
「名古屋市役所本庁舎」と「愛知県庁本庁舎」が国の登録有形文化財に登録されました。
10月31日(土)友引
西区の『庄内通地区都心共同住宅供給事業=ミユキモール/アーバンドエル庄内通』が完了しました。
10月末
港区春田野の「新家特定土地区画整事業」によって、「AZPARK」(アズパーク 店舗面積14,917㎡)がオープンしました。
11月21日(土)赤口
南条茂&きんさん、ぎんさんのシングルCD、「名古屋平成音頭」がリリースされました。
12月21日
8回目の『テレビ塔 塗替え工事が完了』しました。
《その他1,998年(平成10年) 名古屋のできごと》
回転さかなや寿司・魚忠の中村区「黄金店」が開店しました。
1,999年(平成11年)卯年(うさぎ年)

3月14日(日)先負
松原市長(当時)が、緊急記者会見を行い、「ごみ非常事態宣言」が発表されました。
4月1日(木)仏滅
守山区小幡南の「シティファミリー小幡駅前」が竣工しました。
4月17日(土)仏滅
中区金山に米国ボストン美術館の姉妹館として、「名古屋ボストン美術館」が開館しました。
(名古屋ボストン美術館は、平成30年10月8日(月)に閉館しました。)
4月20日(火)先勝
東区筒井の建中寺(本堂等)が名古屋市指定文化財に指定されました。
5月28日(金)大安
名東区猪子石原2丁目の「ダイエー名古屋東店」(現在のイオン名古屋東店 店舗面積18,200㎡)がオープンしました。
9月30日(木)仏滅
中日ドラゴンズが1,999年以来、11年ぶり5回目のセ・リーグで優勝しました。
10月1日(金)大安
名古屋市に「ごみ指定袋制度」が導入されました。
11月
中区のサカエチカが開業30周年を迎え、クリスタルオブジェを刷新しました。
11月20日(土)仏滅
東山スカイタワーの入館者数が500万人を突破しました。
11月20日(土)仏滅
港区品川町に「ベイシティ品川」(現在のイオンモール名古屋みなと 商業施設面積 48,650㎡)がオープンしました。
《その他1,999年(平成11年) 名古屋のできごと》
名古屋市港区初のタワーマンション「名古屋市営みなと荘1棟」、「シティファミリー鴨浦」が完成しました。
第1回「にっぽん ど真ん中祭り」(通称:どまつり)が開催されました。
にっぽんど真ん中祭りは、真夏の名古屋を舞台に繰り広げられる日本最大級の踊りの祭典で、毎年8月末の3日間にわたって開催されています。
にっぽんど真ん中祭りの誕生のきっかけは、「鳴子踊り」を学生が模倣し、踊り始めた事だそうです。
中区金山に金山地区のランドマークとして超高層ビル「金山南ビル」(31階建 134m)が建てられました。
2,000年(平成12年)辰年(たつ年)

1月19日(水)赤口
地下鉄名城線「大曽根~砂田橋」間(約1.7km)が開通しました。
3月14日(火)仏滅
守山区笹ヶ根の吉根特定土地区画整理事業によって「ジャスコ守山店」(現在のイオン守山ショッピングセンター 店舗面積25,253㎡)がオープンしました。
3月15日(水)大安
名駅の『名古屋髙島屋』がオープンしました。
3月21日(火)大安
名古屋港にシャチが迷いこんできました。
名古屋港管理組合や名古屋港水族館などが協力してシャチの脱出作業を行って、無事に伊勢湾に戻したそうです。
3月27日(月)大安
中国の「キンシコウ=孫悟空のモデル」3頭が東山動植物園にやってきました。
3頭のキンシコウは、同年5月17日から、一般公開されました。
5月17日(水)大安
名駅「JR セントラルタワーズ」内のマリオットアソシアホテル(客室774室)が開業する事で、セントラルタワーズが全面開業しました。
(オフィス棟=245.1m・地上51階建て ホテル棟226㎡・地上53階建て 延べ床面積41万6565㎡ 施工=大成建設・鹿島建設・大林組・清水建設・竹中工務店・熊谷組・鉄建建設・名工建設・新生テクノス・ジェイアール東海建設・東海交通機械)
セントラルタワーズの竣工後はデパート、オフィス、ホテルとも人気で名古屋の商業中心として名駅を栄と並立する地位に押し上げ、また「名駅 超高層ビル群」の先駆けとなったビルでもあります。
9月11日(月)先負~12日(火)仏滅
名古屋市内及び、その周辺で集中豪雨が発生しました。
(9月11日~12日の2日間で、名古屋市内の年間降水量の1/3を越える567mmの降水量が記録されました。)
後に気象庁により、『東海豪雨』と命名されました。
名古屋市内では、西区の庄内川北流域、天白区の天白川近辺などでの被害が目立ちました。
なお、東海豪雨による経済的被害は、2,700億円を超え、昭和34年に発生した伊勢湾台風以来の大きな自然災害となりました。
10月1日(日)赤口
第17回国勢調査が行われ、名古屋市内の人口は、2,171,557人でした。
11月17日(金)先勝
守山区新守山の新守山駅の貨物駅跡地に「アピタ 新守山店」(店舗面積15,000㎡)がオープンしました。
《その他2,000年(平成12年) 名古屋のできごと》
名古屋コーチンの卵用種である「名古屋Ⅳ」が誕生しました。
名古屋独特のお嬢様ファッションやヘアスタイルが注目され始め、名古屋の裕福な家庭で育ったファッションに敏感なお嬢様に対して、『名古屋嬢』という呼称が使われるようになりました。
この名古屋嬢という呼称は、2,005年の愛知万博とともに全国的に知られるようになりました。
語源は、名古屋のお嬢様学校で、伝統校の椙山女学園、愛知淑徳学園、金城学院のローマ字の頭文字を取って「SSK」と呼ばれる、女子教育を主とする3つの在校生やその卒業生を指すものでした。
2,001年(平成13年)巳年(へび年)

3月3日(土)仏滅
JR関西本線「春田」駅が開業しました。
3月10日(土)大安
名古屋市都市高速道路の「楠JCT~小牧南」間(5.4km)が開通しました。
3月23日(金)赤口
名古屋市東区と守山区の間で「ゆとりーとライン」が開業しました。
ゆとりーとラインは、日本国内初のガイドウェイバスシステムです。

4月18日(水)先負
名古屋港水族館に「ベルーガ」がやって来ました。
7月
堀川の上流の流域(北区黒川周辺)の魚や植物などを守る為、庄内川から毎秒0.3立方メートルの水が流される様になりました。
10月11日(木)友引
東区東桜に水の宇宙船をモチーフした「オアシス21」がオープンしました。
オアシス21は、空中に浮かぶガラスの大屋根がシンボルで、そのガラスの屋根の上には水が流れており、周囲に約200mの空中回廊が設けられ、地上14mの空中散歩が楽しむ事ができ、名古屋・栄周辺の景色を眺めるには絶好の観光スポットと言えます。
《その他2,001年(平成13年) 名古屋のできごと》
名古屋市環境局ごみ減量部減量推進室のマスコットキャラクター「シャチのジュンちゃん」が誕生しました。
名古屋港水族館のキャラクター、「ペンギンのギンペー」、「シャチのカイオー」、「ウミガメのタート」が誕生しました。
2,002年(平成14年)午年(うま年)
4月20日(土)仏滅
港区潮見町に「名古屋港ワイルドフラワーガーデン ブルーボネット」がオープンしました。
5月
東区泉一丁目に名古屋地区の携帯電話網の中枢を担う超高層ビル「ドコモ東海名古屋ビル」(29階建 101.55m 塔含む 165m 設計;NTTファシリティーズ 施工;鹿島建設、フジタ、その他JV)が建てられました。

7月
名古屋市熱田区に回転ずし「スシロー」が出店しました。
11月23日(土)仏滅
中区大須に複合商業施設「万松寺ビル」がオープンしました。
12月4日(水)大安
大手コンビニエンスストア「セブンイレブン」が名古屋市内へ初出店(東区徳川、葵、天白区中平、中村区則武、中川区東起町)しました。(5店舗)
《その他2,002年(平成14年) 名古屋のできごと》
名古屋市交通局のマスコットキャラクター「ハッチー」が誕生しました。 ハッチーのモチーフは、名古屋のシンボル・金のしゃちほこで、名前は名古屋市章である「丸八」の「8」と、「シャチ」をかけ合わせたもので、性格は「まじめで時間に正確」、「魚人一体型のゆるキャラ」だそうです。
東区矢田の三菱電機研修センターの跡地に「メッツ大曽根」(店舗面積15,670㎡)がオープンしました。
2,003年(平成15年)未年(ひつじ年)

3月20日(木)先勝
千種区星が丘にちょっとおしゃれな感じの商業施設「星が丘テラス」がオープンしました。
3月27日(木)友引
名古屋地下鉄の上飯田線、「平安通駅~上飯田駅」(0.8㎞)が開通しました。
7月5日(土)大安
熱田区の大同特殊鋼高蔵製作所の跡地に「イオンモール熱田」(店舗面積46,661㎡)がオープンしました。
10月12日(日)先勝
中区大須で第1回「世界コスプレサミット」が開催されました。
現在「世界コスプレサミット」は、コスプレの世界最大のイベントで、開催を重ねるごとに参加国が増え、世界各国から注目されています。
12月1日(月)赤口
「地上デジタル放送、デジタルデータ放送」が名古屋で開始されました。
12月5日(金)仏滅
株式会社ヘラルド・コーポレーションが約300億円の負債を抱え、民事再生の手続を開始しました。
ヘラルドグループは、古川為三郎氏(ふるかわ ためさぶろう 1,890年1月18日~1,993年5月19日)が大正10年に名古屋市中区大須に映画館「太陽館」を開館した事が始まりです。
12月6日(土)大安
中区大須に「大須301ビル」がオープンしました。
12月23日(火)赤口
『名古屋 ドル紙幣ばらまき事件』がありました。
23日午後5時すぎ、名古屋市中区錦のテレビ塔の展望台(高さ約100メートル)から、岐阜市に住む無職男性(当時26歳)が1ドル紙幣などを大量にばらまきました。
《その他2,003年(平成15年) 名古屋のできごと》
地下鉄2号線の「金山駅~名古屋港駅」を名城線から名港線へ名称変更されました。
名古屋テレビ放送(メ〜テレ)のマスコットキャラクター「羊の皮をかぶったオオカミ」がモチーフである「ウルフィー」が誕生しました。
2,004年(平成16年)申年(さる年)

6月18日(金)大安
中区のテレビ塔で、『テレビ塔 開業50周年式典』が開催されました。
8月1日(日)先負
中川区のキャラクター「ナッピー」が誕生しました。
ナッピーは、区名の由来となった中川運河、庄内川、戸田川‥といった7つの河川が流れているといった中川区の特徴から、川をイメージしたキャラクターとして誕生しました。
ナッピーの友達には、ハボンがいます。
9月23日(木)大安
千種区の「アピタ千代田橋」(店舗面積11,941㎡)がオープンしました。
10月1日(金)先勝
中日ドラゴンズが1,988年以来、11年ぶり6回目のセ・リーグ優勝しました。
10月6日(水)赤口
名古屋臨海高速鉄道「西名古屋港線(あおなみ線)」(15.2㎞)が開通しました。
あおなみ線の沿線には、名古屋市国際展示場(ポートメッセなごや)、リニア・鉄道館、レゴランド・ジャパン、名古屋競馬場、イオンモール名古屋みなと、Zeep名古屋などの観光スポット、商業施設があります。
10月6日(水)赤口
名東区藤が丘の地下鉄駅名である「藤ヶ丘」が「藤が丘」に改称されました。
10月6日(水)赤口
名古屋地下鉄4号線(名城線)、「名古屋大学駅~新瑞橋駅」間(5.6km)が開通し、地下鉄4号線が全線開通しました。
同日、2号線とともに環状運転を開始しました。
10月19日
中区新栄に千種駅周辺の活性化を目指して超高層ビル「アクシオス千種」(31階建 108.43m 施工:大成建設・清水建設・矢作建設工業)が建てられました。
11月25日(木)大安
緑区鳴海町の鳴海製陶本社工場の一部敷地に「アピタ 鳴海店」(店舗面積17,017㎡ 設計・施工 戸田建設)がオープンしました。
《その他2,004年(平成16年) 名古屋のできごと》
地下鉄2号線の「金山駅~名古屋港駅」を名城線から名港線へ名称が変更されました。
名古屋市緑政土木局河川部堀川総合整備室のマスコットキャラクター「ホリゴン」が誕生しました。
ちなみにホリゴンは、堀川がつくられたときから、堀川に棲んでいる恐竜で、本当の名前は、「堀川権左衛門」という、福島正則が付けてくれた名前で、
堀川の『ほり』と、権左衛門の『ゴン』を合わせて、「ホリゴン」と呼ばれるようになったそうです。
千種区に「ライオンズタワー千種」(27階建 97.1m 設計・施工:大成建設)が建てられました。
2,005年(平成17年)酉年(とり年)
1月29日 (土)先勝
『名鉄新名古屋駅から、名鉄名古屋駅に駅名が変更』されました。
駅名変更の理由は、地元以外の旅客から名鉄の駅である事を簡単に認識してもらう為だったそうです。
3月6日(日)友引
愛知高速交通株式会社が運営する東部丘陵線リニモ、「藤が丘~八草」間(8.9km)が開業しました。
リニモは、常伝導吸引型の磁気浮上式のリニアモーターカーで、電車とは、ちょっと違う揺れの少ない快適な乗り心地が特徴です。
3月10日(木)友引
中区金山に「アスナル金山」がオープンしました。
アスナル金山には、バラエティに富んだお店が立ち並び、グルメやショッピングの他にもイベントステージがあり、ミュージシャンや芸能人などのミニコンサートも随時開催されています。
3月11日(金)先負
中村区グローバルゲート東隣にあるライブハウス「Zepp 名古屋」がオープンしました。
3月18日(金)仏滅
愛・地球博ささしまサテライト会場で「デ・ラ・ファンタジア」(中村区平池町の旧国鉄笹島駅跡地)で開催されました。
ちなみにデ・ラ・ファンタジアには、1,980年代のバブリーなディスコを再現したテーマ館「GLAMOROUS ONE-92(グラマラス192)」があり、店主ゆずの知り合いであるDJの伊澤さんが毎週イベントを行っていました。
なお期間中、約393万人の人々がデ・ラ・ファンタジアに訪れたそうです。
3月25日(金)大安
愛知万博が開幕しました。(ちなみに店主ゆずは、パビリオンの塗装工事にはいきましたが、肝心な愛知万博には行けませんでした。・・・・)
3月25日(金)大安
緑区鳴海町の有松駅前第1種市街地再開発事業によって「イオン有松ショッピングセンター」(現在のイオンタウン有松 店舗面積20,231㎡)がオープンしました。
5月27日(金)大安
イタリアのトリノ市と名古屋市が姉妹都市提携を行いました。
5月28日(土)赤口
千種区のサッポロビール名古屋工場の跡地に「イオンタウン千種」(店舗面積16,380㎡)がオープンしました。
7月12日(火)赤口
中区のテレビ塔が文部科学大臣から「戦後の復興策として建設、都市の発展に貢献」、「全国に先駆けて建設、全国タワーのモデル」‥と言った理由によって、国の登録有形文化財に登録されました。
9月
愛・地球博ささしまサテライト会場デ・ラ・ファンタジア内のディスコ、GLAMOROUS ONE-92で開かれたイベントで、つボイノリオ選曲のディスコ・ナンバーに混ぜて、スタッフが「金太の大冒険(放送禁止)」、「本願寺ぶるーす(放送禁止)」、「極付け!お万の方(放送禁止)」にディスコ用にリミックスしたメドレー「KINTA Ma-xim MIX(キンタ・マ キシム・ミックス)」を流したところ、多くのお客さんにうけたそうです。
(ダンスフロアを想像するとすごく笑えます。・・・・)
9月25日(日)大安
愛知万博が185日間の会期を終えて無事閉幕しました。
目標の来場者数1,500万人を大きく上回る約2,205万人の人々が来場し、成功裏に幕を閉じました。
9月28日(水)友引
東区東桜一丁目に「アーバンネット名古屋ビル」(高さ99.58m 設計:NTT都市開発、大成建設、日総建、NTTファシリティーズ 施工:大成建設、共立建設、第一ヒューテックJV)が竣工しました。
10月末
中川区戸田明正の戸田土地区画整理事業によって、「バロー 戸田店」(店舗面積11,795㎡)がオープンしました。
12月19日(月)仏滅
名古屋市で1,947年(昭和22年)2月3日以来、58年ぶりとなる23cmの積雪を記録しました。
《その他2,005年(平成17年) 名古屋のできごと》

東区にある文化展示施設「文化のみち二葉館」が開館しました。
文化のみち二葉館は、『電力王』と呼ばれた実業家福澤桃介と日本の女優第1号である川上貞奴が、1,920年(大正9年)から1,926年(大正15年)までの6年間を共に暮らした旧邸宅を移築改装したものです。
当時あった場所が東二葉町(現在の白壁三丁目)であった事や、和洋折衷建築の斬新な外観やその豪華さから、「二葉御殿」と呼ばれています。
東区東桜にオフィス・商業ビル「アーバンネット名古屋ビル」(22階建 99.58m 施工;大成建設)が建てられました。
2,006年(平成18年)戌年(いぬ年)
5月30日(火)友引
大須商店街が『がんばる商店街77選』に選ばれました。
7月
東区矢田にラーメン店「信龍」が北区福徳から移転し、リニューアルオープンしました。
信龍チャーシュー、餃子、チャーハンがおすすめメニューです。
7月16日(日)友引
名古屋港のマスコットキャラクター「ポータン」が誕生しました。
ポータンは、名古屋港開港100周年記念のキャラクターとしてお目見えしました。
10月10日(火)友引
中日ドラゴンズが2年ぶり、7回目のセリーグ優勝しました。
11月11日(土)大安
西区名西の東芝名古屋工場跡に「ヨシヅヤ 名古屋名西店」(店舗面積19,540㎡)がオープンしました。
12月20日(木)赤口
大曽根地下街「オズガーデン」が開館しました。
オズガーデンは、「大曽根駅前駐車場」や「大曽根雨水調整池」と共に『大曽根西駅前の広場』として造られ、名古屋市営地下鉄大曽根駅とJR・名古屋鉄道大曽根駅を結ぶ連絡通路としての役割も持っています。
《その他2,006年(平成18年) 名古屋のできごと》
中村区名駅5丁目に超高層ビル「アクアタウン納屋橋」(40階建 117.8m 設計 西松建設・都市再生機構 施工 西松建設・名工建設・近藤組)が建てられました。
中村区に「ミッドランドスクエア」(47階建 247m)が建てられました。
2,007年(平成19年)亥年(いのしし年)
1月26日(金)先勝
中村区名駅に「名古屋ルーセントタワー」が全面開業しました。
(40階建 180.2m 設計:日建設計 施工:大成建設、トーエネック、きんでん)
2月16日(金)仏滅
久屋公園が「日本の歴史公園100選」に選ばれました。
3月6日 (火)大安
中村区の複合商業施設「ミッドランドスクエア(正式名称=豊田・毎日ビルディング)」が全面開業しました。
(設計:日建設計 施工:竹中工務店、大林組、鹿島建設、清水建設)
ミッドランドスクエアは、2,019年現在、中部地方で最も高いビルです。
3月28日(火)赤口
東区矢田南の日本たばこ産業株式会社(JT)の名古屋工場跡地に「イオンモールナゴヤドーム前」(店舗床面積48,000㎡)がオープンしました。
4月
熱田区熱田西町に「名古屋学院大学の名古屋キャンパス」が開設されました。
6月6日(水)赤口
モード学園スパイラルタワーズの建設工事中、32階の高さから、長さ約3.5m、重さ100kgの鉄骨が地上に落ちるという事故が発生しました。
幸いにも、鉄骨落下による被害は自ビル、道路の損傷にとどまって、けが人などはいませんでした。

6月28日(木)赤口
オーストラリアのタロンガ動物園から東山動物園に西ローランドゴリラのシャバーニ(オス)が来園しました。
後にシャバーニは、イケメンゴリラとしても話題となって、2,015年には『シャバーニ! 東山動植物園オフィシャルゴリラ写真集』が出版されました。
7月21日(土)先勝
なごや観光ルートバス「メーグル」が運行開始しました。
8月4日(土)先負
スリランカからアジアゾウのアヌラ(来園時5歳)とコサラ(同3歳)が来園し、公開されました。
8月10日(金)先負~12日(日)大安
東山動物園で「ナイトZOO」が開催されました。
9月
寿がきやの「ラーメンフォーク」のデザインが全面的に刷新されました。
フォークの歯が3本から4本と増えて、麺がすくいやすくなり、従来は右側に寄っていたフォークの歯が、左利きの人も使いやすい様、中央になりました。
このラーメンフォークは、女性デザイナーである高橋正実女史(たかはし まさみ 1,974年 東京都墨田区生まれ)とノリタケカンパニーリミテッドの共同開発だそうです。
(ただ、寿がきやファンである小林ゆずは、前のラーメンフォークの方が好きです。)

11月1日(木)赤口
名古屋市北区に「小林塗料産業」の名古屋営業所が開設されました。
11月1日(木)赤口
中日ドラゴンズが53年ぶりに日本シリーズで優勝し、球団創設以来2度目の日本一に輝きました。
11月8日(木)先勝~11月11日(日)大安
日本の東京ドームで行われた『アジアシリーズ 2,007』も、落合博満監督が率いる日本代表の中日ドラゴンズが優勝しました。
《その他2,007年(平成19年) 名古屋のできごと》
名古屋高等検察庁のなごみ系マスコットキャラクター、「なーぼ」が誕生しました。

名古屋地方検察庁の金シャチ+コアラを組み合わせたマスコットキャラクター、「鯱あ郎(こあろう)」が誕生しました。 ちなみに、ナーポも鯱あ郎も庁職員さんによるデザインらしいです。
中区丸の内2丁目のトナミ運輸名古屋事務所の跡地に超高層ビル「アルペン丸の内タワー」(25階建 115.8m 設計 日本設計 施工 竹中工務店)が建てられました。
2,008年(平成20年)子年(ねずみ年)

3月25日(火)先勝
緑区南大高の大高南特定土地区画整理事業によって「イオン大高ショッピングセンター」(現在のイオンモール大高 店舗面積61,235㎡)がオープンしました。
3月26日(水)友引
中村区名駅4丁目に「モード学園 スパイラルタワーズ」(36階建 170m 設計:日建設計 施工:大林組)が開業しました。
「スパイラルタワーズ」のスパイラル状デザインは、「時代の最先端を行くエネルギーを持つ学生が切磋琢磨して、絡み合いながら上昇して、社会へ羽ばたいていく様」を表しているそうです。
2,008年12月には、第40回中部建築賞一般部門において入賞、2,009年1月には、「愛知 まちなみ建築賞大賞」を受賞、同年6月には、日本建築構造技術者協会、第20回JSCA賞において「作品賞」に選ばれました。
9月30日(火)仏滅
中区錦一丁目に「名古屋インターシティ(NAGOYA INTERCITY)」(高さ93.61m 設計:日本設計 施工:大林組)が竣工しました。
10月22日(水)友引
名古屋市が『ユネスコのデザイン都市』に認定されました。
《その他2,008年(平成20年) 名古屋のできごと》

名古屋市中川区の麺屋はなび高畑本店で、「台湾混ぜそば」が誕生しました。
台湾混ぜそばが誕生するきっかけは、はなびの主人が名古屋のご当地ラーメンである「台湾ラーメン」を作ろうと思い、具材の台湾ミンチを作りましたが、当時のスープに合わず断念しました。
そのミンチを捨てようとした際、当時勤務していたアルバイトの1人に「茹で上げた麺にかけてみたらどうでしょう?」と言われたのがをきっかけに研究し、何度も試行錯誤を繰り返し、現在の台湾まぜそばが完成したそうです。
中区上前津に三重交通グループが開発・販売したタワーマンション「ナゴヤセンタータワー」(29階建 103.32m)が建てられました。
名古屋コーチンが卵用、肉用合わせて、約130万羽になりました。
2,009年(平成21年)丑年(うし年)
3月14日(土)先勝
緑区大高町の「JR 南大高駅」が開業しました。
ちなみに南大高駅は、JRの駅として名古屋市内で最も南にある駅です。
4月21日(火)仏滅
西区二方町のワンダーシティが「mozoワンダーシティ」(店舗面積85,000㎡)としてリニューアルオープンしました。
4月28日(火)先勝
32~33代名古屋市長に河村たかし氏(かわむら たかし 1,948年(昭和23年)11月3日~)が就任しました。
河村氏の先祖は、江戸時代中期の尾張藩士で徳川宗春に仕えた河村 秀根氏(かわむら ひでね 『日本書紀』を研究した国学者 1,723年11月9日~1,792年8月13日)だそうです。
5月
西区名駅二丁目に超高層マンション「ブリリアタワー名古屋グランスイート」(高さ106.23m 設計・施工:清水建設)が竣工しました。
6月19日(金)先勝
中区のテレビ塔で、開業55周年に伴って『キャンドル ナイト』が開催されました。
9月26日(土)先負
千種区のマスコットキャラクター「こあらっち」が誕生しました。
10月
中村区名駅四丁目に「愛知県産業労働センター」(高さ90.00m 設計:竹中工務店、安井建築設計事務所 施工:竹中工務店)が竣工しました。
《その他2,009年(平成21年) 名古屋のできごと》
熱田区六野に超高層マンション「ザ・ライオンズミッドキャピタルタワー」(47階建 161.9m 設計・施工:竹中工務店)が建てられました。
2,010年(平成22年) 寅年(とら年)

1月下旬
千種区に超高層マンション「グランスイート千種タワー」(30階建 101.30m 設計・施工:奥村組)が建てられました。
3月9日(火)赤口
南区菊住に「イオンモール新瑞橋」がオープンしました。
イオンモール新瑞橋は、2,004年(平成16年)6月に閉鎖となった住友電気工業名古屋製作所の閉鎖によって生じた跡地、約72,000㎡の再開発の一環として開始されました。
3月25日(木)大安
大須商店街のふれあい広場にアーケードができました。
4月
千種区に「愛知工業大学の自由が丘キャンパス」が開設されました。
5月10日(月)大安
中日ドラゴンズ2軍の本拠地球場であるナゴヤ球場の改修工事が完了し、竣工式が行われました。
8月21日(土)赤口~10月31日(日)友引
「あいちトリエンナーレ2,010」が開催されました。
10月
中区栄のテレビ塔が「恋人の聖地」に認定されました。
10月1日(金)先勝
中日ドラゴンズが『8回目のセ・リーグ優勝』をしました。
10月11日(月)赤口
名古屋市で『第10回 生物多様性条約締約国会議 (COP10)』が開催されました。
11月6日(土)仏滅
緑区元徳重の徳重北部土地区画整理事業によって、ユニー株式会社が管理・運営するモール型ショッピングセンター「ヒルズウォーク徳重ガーデンズ」(施工 熊谷組 店舗面積25,554㎡)がオープンしました。
11月20日(土)赤口
名古屋グランパスがJ1リーグで、『悲願の初優勝』を決めました。
11月27日(土)先勝
中村区名駅に「松坂屋 名古屋駅店」(店舗面積16,521㎡)がオープンしました。
なお、松坂屋名古屋駅店は、2,010年(平成22年)9月30日に閉店し、その跡地にはJRゲートタワーが建てられました。
《その他2,010年(平成22年) 名古屋のできごと》
東区葵に工作機械メーカー大手ヤマザキマザックの高層ビル「マザックアートプラザオフィスタワー」(31階建 99.75m)が建てられました。
2,011年(平成23年)卯年(うさぎ年)

2月11日(木)先負
ICカード乗車券「manaca(マナカ)」のサービスが開始されました。
現在マナカは、名古屋鉄道(名鉄)、名鉄バス、名古屋市交通局、名古屋臨海高速鉄道、名古屋ガイドウェイバス、豊橋鉄道、愛知高速交通で使用する事ができます。
3月14日(日)大安
名古屋市港区の金城ふ頭に子どもから大人まで楽しく学ぶ事ができる観光スポット「リニア・鉄道館 ~ゆめとおもいでのミュージアム~ 」が開業しました。
「リニア・鉄道館」では、東海道新幹線を中心に、在来線から超電導リニアまでの展示を通じて、高速鉄道技術の進歩を紹介しており、模型やシミュレータ‥があります。
3月16日(水)先勝
緑区浦里の「なるパーク」(店舗面積17,200㎡ 前身 イトーヨーカドー鳴海店 1,997年9月13日開店)がオープンしました。
3月27日(土)先勝
名古屋地下鉄6号線(桜通線)、「野並駅~徳重駅」間(4.2km)が開通しました。
7月24日(土)赤口
中区のテレビ塔が地上波アナログ放送の電波塔としての役目を終えました。
9月7日(水)大安
中村区平池町にJRと近鉄を跨ぐ歩道橋「ささしま米野歩道橋」(全長156m 幅員4 m)が開通し、近鉄名古屋線の米野駅方面へのアクセスが改善されました。
9月25日(土)先勝
守山区制50周年を記念したマスコットキャラクター「モリスちゃん」が元気まつり守山(区民まつり)に来場された方の投票によって決定しました。
10月18日(月)先勝
中日ドラゴンズがプロ野球セントラル・リーグにおいて、『球団史上初のリーグ2連覇』を達成しました。
10月23日(日)大安
昭和区区民祭りにおいて、昭和区のイメージキャラクター「ショウちゃん」(御器所大根がモチーフ)が誕生しました。
《その他2,011年(平成23年) 名古屋のできごと》

『名古屋渋ビル研究会』が結成されました。
名古屋渋ビル研究会とは、寺嶋梨里女史と謡口志保女史による高度経済成長期(1,950~70年代)に建てられた、名古屋の渋いビルを愛でる会の事です。
また、名古屋渋ビル研究会では、小冊子「名古屋渋ビル手帖」を年1回程度発行しています。
2,012年(平成24年)辰年(たつ年)

4月
中村区に「愛知大学の名古屋キャンパス」が開設されました。
4月12日(木)赤口
テレビ塔が『リニューアルオープン』しました。
7月15日(日)赤口
港区の名古屋港シートレインランドの楽しさをPRするため大観覧車の形をモチーフしたマスコットキャラクター「シートンくん」が誕生しました。
10月14日(日)赤口
2年前、東山動物園のニホンザル運動場に侵入した野生の猿「ムコドノ」(オス)がそれまで脱走不可能と考えていた6mの壁を越えて園外に逃走してしまいました。
なおムコドノは、7日後の10月21日に南区赤坪町で捕獲されました。
《その他2,012年(平成24年) 名古屋のできごと》
東区泉に「シティタワー 名古屋久屋大通公園」(31階建 99.85m)が建てられました。
2,013年(平成25年)巳年(へび年)

1月
中区大井町に「ヴィ―クタワー名古屋東別院」(29階建 99.88m 設計・施工;清水建設)が建てられました。
4月12日(木)赤口
テレビ塔が『リニューアルオープン』しました。

7月26日(金)赤口
西区の円頓寺商店街と円頓寺本町商店街の交差点4か所に三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)と水戸黄門の徳川光圀のモニュメント像が設置されました。
(時代背景が徳川光圀だけ違うじゃんと、ツッコミたくなります。・・・・)
11月23日(土)赤口
『名古屋都市高速道路が全面開通』しました。
名古屋都市高速道路は、計画路線81.2キロ全てが開通した事で、そのネットワーク機能を十分に発揮する事ができる様になって、平成29年度の1日あたりの平均通行台数は33万台を超えるなど、今や名古屋都市圏に欠かせない道路となっています。
12月19日(木)先負
名古屋市北区に名古屋市内最大規模の「DCMカーマ21 名古屋城北店」がオープンしました。
DCMカーマ21は、生活館、資材・リフォーム館・園芸館を備えたホームセンターで、特に住宅リフォームに関する商品が充実しています。
《その他2,013年(平成25年) 名古屋のできごと》
千種区に「グランドメゾン池下ザ・タワー」(45階建 160m)が建てられました。
中区に「プラウドタワー 名古屋栄」(29階建 99.95m)が建てられました。
2,014年(平成26年)午年(うま年)

4月
北区に「愛知学院大学の名城キャンパス」が開設されました。
4月
瑞穂区に「愛知みずほ大学のみずほキャンパス」が開設されました。
6月20日(金)先負
中区のテレビ塔で、LED電球11,000個を使ったライトアップ『煌き』が開始されました。
6月27日(金)赤口
港区西茶屋に茶屋新田土地区の画整理事業によって「イオンモール 名古屋茶屋」(店舗面積:75,000㎡ 施工:大林組)がオープンしました。
ラグアルダ・ロウ・アーキテクツ (LLA)とコラボレーションした建物デザインは、『南陽の丘』をイメージしたもので、イオンモール名古屋茶屋が海から約1.5kmしか離れていない事を考慮して、2階より上には津波の発生時に一時避難できる空間が用意されており、名古屋市の津波避難ビルの指定を受けています。
11月10日(月)友引~12日(水)仏滅
持続可能な開発のための教育(ESD)に関する「ユネスコ世界会議」が名古屋市と岡山市で開催されました。
12月10日(水)仏滅
中区丸の内の愛知県庁舎が意匠的に優秀なもの、歴史的価値の高いものとして、「国の重要文化財」に指定されました。
2,015年(平成27年)未年(ひつじ年)

1月16日
寿がきやのSプレミアムらーめんが発売されました。
ラーメンの内容は、濃厚スープ&肉9倍&生卵(同年1月31日まで)
3月
中村区のささしまライブ24地区に東・南・西棟に分かれる総戸数400を超える大型賃貸マンション「ロイヤルパークスERささしま」が完成しました。
3月21日(土)先負
西区那古野の円頓寺商店街アーケードの全面改修工事が終わり、完成記念式典が行われました。
なお、円頓寺商店街のアーケードは、1,964年(昭和39年)に設置されました。
4月
昭和区に「南山大学の昭和キャンパス」が開設されました。
4月15日(水)仏滅
港区金城埠頭で、世界8ヶ所目、国内初のレゴランド屋外テーマパーク「レゴランドジャパン 名古屋」の建設工事が着工されました。
7月15日(水)仏滅
『テレビ塔 プロジェクションマッピング』が開幕しました。
8月
中区金山一丁目に「アルバックスタワー 金山駅前」(高さ90.91m 設計:清水建設 施工:清水建設、アイシン開発JV)が竣工しました。
9月19日(土)友引
名古屋市が『フェアトレード・タウンとして認定』を受けました。
10月31日(土)先負
中村区名駅3丁目に2代目「大名古屋ビルディング」(高さ174.7m・地上34階・地下4階)が完成しました。
12月10日(木)友引
南区豊田五丁目の日清紡績名古屋工場の跡地に「ビバモール名古屋南」(店舗面積 23,289㎡)がオープンしました。
12月26日(土)友引
中川区に大型温浴施設『キャナルリゾート』がオープンしました。
《その他2,015年(平成27年) 名古屋のできごと》
中村区に「JPタワー」(40階建 195.74m)が建てられました。
2,016年(平成28年) 申年(さる年)
4月1日(金)先勝
千種区星が丘山手に「愛知県立愛知総合工科高等学校」が創設されました。
6月30日(木)赤口
中村区名駅4丁目にあった「第二豊田ビル」の建替えプロジェクトに超高層ビル「シンフォニー豊田ビル」(25階建 115.0m 設計・施工 竹中工務店)が竣工しました。
7月25日(月)先負
緑区の旧東海道沿いの『有松町の町並みが、国の重要で伝統的な建造物群保存地区』に選定されました。
9月15日(木)仏滅
名古屋市中村区則武一丁目に「名鉄イン名古屋駅新幹線口(ベルヴュオフィス名古屋)」(高さ93.52m 設計・施工:竹中工務店)が竣工しました。
10月
中区のサカエチカ「クリスタルオブジェ」が、サカエチカの改修工事の為を撤去されました。
10月
記念日協会によって、3月10日が「名古屋コーチンの日」に認定されました。
10月15日(土)大安
江戸時代の大須で多くの人を集めた『ラクダ行列が190年ぶりに復活』しました。
10月20日(木)仏滅
北区制70周年を記念し、北区のマスコットキャラクター「キタッコ」が誕生しました。
11月21日(月)先勝
ささしまライブ24地区につくられた中京テレビの新社屋(地上11階、地下1階、高さ60.90m 電波塔最高部159.29m 設計:伊藤・日建設計 施工:大林組)からの放送が開始されました。
12月11日(日)大安
鳥インフルエンザの防疫によって、東山動物園が休園する事になってしまいました。
(なお、翌年1月13日に再開園されました。)
《その他2,016年(平成28年) 名古屋のできごと》
名古屋市内の人口が230万人を突破しました。
2,017年(平成29年)酉年(とり年)

3月30日(火)先負
港区金城ふ頭二丁目に「モノづくり」をテーマにした商業施設「Maker’s Pier(メイカーズピア)」(店舗面積 9,451㎡ 設計・施工 矢作建設工業)がオープンしました。
4月
東区に「名城大学の名古屋ドームキャンパス」が開設されました。
4月1日(土)先勝
名古屋市港区に「レゴランド・ジャパン」がオープンしました。
4月
北区にあった旧愛知県立愛知工業高等学校の跡地に「愛知県立城北つばさ高等学校」が開校しました。
6月
中区サカエチカの改修工事が開始されました。
7月27日(木)仏滅~7月30日(日)先勝
金城ふ頭のポートメッセなごやで自律移動ロボットによる競技大会「ロボカップ 2,017」が開催されました。
10月5日(木)大安
名古屋駅の南にある再開発地区ささしまライブ24地区の「グローバルゲート」(高層タワー約170m 大和ハウス名古屋ビル約90m 低層棟 約30m 設計:竹中工務店名古屋一級建築士事務所 施工:竹中工務店名古屋支店)が開業しました。
12月4日(月)友引
名古屋市中区千代田に銭湯にある貴重な銭湯グッズを集めた展示施設「あいち銭湯資料館」が愛知県公衆浴場組合の設立60周年を記念して開館しました。
ちなみに愛知銭湯資料館は、平日および土曜日の10時から16時まで開館しています。
12月7日(木)大安~12月10日(日)友引
「ISU国際グランプリファイナルフィギュアスケート競技大会 愛知・名古屋 2,017」が開催されました。
《その他2,017年(平成29年) 名古屋のできごと》
中村区に「愛知大学 名古屋キャンパス本館」(20階建 93.8m)が建てられました。
中区栄1丁目に御園座会館の建て替えによって「グランドメゾン御園座タワー」(40階建 約150m 設計・施工:鹿島建設)が建てられました。
中村区に「JRゲートタワー」(46階建 211.1m)が建てられました。
2,018年(平成30年)戌年(いぬ年)

3月29日(木)友引
名古屋めしや土産屋を中心とした店舗が集まる「金シャチ横丁」が完成しました。
金シャチ横丁は、名古屋城を大きく活性化させる、名古屋の食のエンターテイメントゾーンです。
4月28日(土)(土)先負
港区のテーマパーク レゴランドに「レゴランドホテル」がオープンしました。
5月7日(月)赤口
「名古屋城の天守閣」が木造復元に向けて、立ち入り禁止になりました。
6月8日(金)仏滅
『名古屋城本丸御殿の復元が完了』して、一般公開されました。
ちなみに名古屋城本丸御殿は、1,615年(慶長20年)、徳川家康の命によって、九男の尾張藩主・義直の居住用に建築された木造平屋の書院造りの建物で、延べ床面積が約3100㎡あります。
1,930年(昭和5年)に国宝に指定されましたが、1,945年(昭和20年)5月14日のアメリカ軍の空襲で大天守、小天守、東北隅櫓‥と共に焼失してしまいました。
2,009年(平成21年)から「安藤ハザマ・松井・八神特別共同企業体」による復元工事が行われ、木工事や飾り金具、彫刻など、将軍が宿泊する「上洛(じょうらく)殿」の様な優美で華やかな空間が再現されました。
6月20日(水)大安
名東区平和が丘に「RAKU SPA GARDEN 名古屋(ラクスパガーデン)」がオープンしました。
6月30日(土)先負
中区の丸栄百貨店が丸栄になって72年、十一屋呉服店から403年といった長い歴史に幕をおろしました。
8月3日(金)先負
千種区で観測史上最高となる『気温40.3℃』を記録しました。
その日、小林ゆずは、息子ちんぺー、今井綱紀君達でレゴランドに行きました。
あまりの暑さに意識がもうろうとしました。
9月28日(金)友引
港区港明二丁目に「ららぽーと 名古屋みなとアクルス」がオープンしました。(店舗面積 59500㎡ 設計・施工:竹中工務店)
10月
愛知工業高校が「愛知県立工業学校」として設立されました。
愛知工業高校は、2,018年3月に閉校し、名古屋市千種区星が丘山手の「愛知県立愛知総合工科高等学校」に引き継がれました。
10月11日(木)大安~13日(土)先勝
建築塗料メーカースズカファインが「第48回 建築総合展 NAGOYA 2,018」に出展しました。
11月8日(木)仏滅
ナゴヤドームで『ポールマッカートニー』のコンサートが開かれました。
11月29日(木)先勝
地元、名古屋発祥のコンビニエンスストア「サークルK」が全店閉店し、38年の歴史に幕が閉じました。
おっさんウケする味付けの『フライドチキン』と焼き鳥の『ボンジリ』がおいしかったです。
12月10日(月)友引
港区のテーマパーク レゴランド・ジャパンにある「レゴランドホテル」で、使い捨てプラスチック製ストローが廃止となって、10日から紙製ストローの使用が始まりました。
《その他2,018年(平成30年) 名古屋のできごと》
中区に「広小路クロスタワー」(29階建 97.1m)が建てられました。
2,019年(平成31年)亥年(いのしし年)
1月7日(月)先勝
名古屋テレビ塔の耐震改修工事が開始されました。
2月9日(土)大安
守山区桔梗平の竜泉寺街道沿いに大型ホームセンター「コメリパワー 名古屋竜泉寺北店」がオープンしました。
名古屋市内初の出店のコメリです。
3月29日(金)赤口
名古屋市北区の「名鉄瀬戸線 尼ヶ坂駅〜清水駅」間の高架下に、商業施設『SAKUMACHI商店街』がオープンしました。
『SAKUMACHI商店街』は、駅間を繋ぐ高架下商業施設として、街の一体感を醸成させ、商店街を通じて地域の活性化に貢献する事を目指した商店街です。
4月1日(月)先負
名古屋市守山区大字上志段味に「歴史の里 しだみ古墳群」がオープンしました。
4月30日(火)仏滅
平成最後の日として、名古屋市内で号外が発行されました。
11月
中区のサカエチカ50周年を祝いクリスタル広場にLEDのパネルディスプレーが設置されました。
また、2,020年11月には日本生命栄町ビル跡地に建設される商業ビルと接続や2,024年には、栄角地に建設される複合ビルとの接続‥が予定されているそうです。
2,019年(平成31年・令和元年)亥年(いのしし年)
5月1日(水)大安
新天皇即位と改元に伴い、名古屋市内の百貨店やスーパーで「令和商戦」がスタートしました。
6月11日(火)先勝
名古屋市中区の「愛知県体育館」を、800m北にある名城公園北園(同市北区内の野球場に移転新築する県の計画が発表されました。
7月1日(月)先負
港区のレゴランド新エリアに「レゴニンジャゴーワールド」がオープンしました。
8月3日先負
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2,019」で「表現の不自由展・その後」の展示物が表現の自由めぐって、展示中止になりました。
2,020年(令和2年)子年(ねずみ年)

9月18日(金)
名古屋市中区・栄の久屋大通公園北エリア/テレビ塔エリアに『RAYARD Hisaya-odori Park(レイヤード ヒサヤオオドオリパーク)』新商業施設が誕生しました。
・江戸川乱歩(1,894〜1,965年)の記念比嘉市内の旧宅跡近くに設置されました。
2,021年(令和2年)牛年(うし年)
10月
金沢まいもん寿司「イオンモールナゴヤドーム前店」が開店しました。
* ちなみに名古屋で塗装工事のことなら、ぜひ『名古屋の塗装店』小林塗装にお任せください。
小さな塗装店ですが、誠心誠意お客様の希望にお応えできる様、いつも全力でがんばっています。
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